○このブログのタイトルは「故人今人」からとったものです。池田成彬が、明治から戦前までの人物譚を小汀利得などの対談者の質問に答えています。この本は杉森久英の著書で人物評伝の中にこの本は、読む価値のある本と勧めていました。たまたま古書店見つけたのでもとめたものです。昭和25年世界の日本社刊です。池田成彬の人物ネットワークの分かる面白い本です。

池田成彬は三井財閥の総帥、のち大蔵大臣。

 

○西園寺公望の秘書原田熊雄についてご存じの方は少ないと思います。昭和史の重要な史料「西園寺公と政局」を口述した人物です。この本は原田の死後集められたもので、本来極東国際軍事裁判の対策のための資料でした。天皇の訴追を防ぐために、昭和天皇がいかに戦争を回避するために、ご尽力されたかを政治の経過とともに伝えています。のち、岩波書店から刊行されています。西園寺公望は最後の元老として大正から昭和10年代まで総理大臣の後継者を選定し天皇に奏上する役目をはたしていました。

 

 原田熊雄は京都帝国大学で近衛文麿や木戸幸一と同級。のち男爵を就爵。原田は西園寺の手足となって情報を収集しました。原田は、西園寺から指示されたことを正確に相手に伝えそこに私情をはさんだり、立場を利用するようなことをしなかったと言われています。また、親しい人達からは「熊公」と呼ばれた愉快な人だったようです。池田は次のように原田を語っています。

 

●原田は西園寺さんに心酔して、内閣の更迭、軍縮問題などの時には寝食を忘れて働いていた、あの軍縮問題の時にだれがどう言った。こう言った、そしたらこういう返事をした、と一日に何カ所も歩いて必ずその日のうちに西園寺さんのところに報告に行く。よく日はまたすぐ東京へ戻ってくるというので、実に勉強したものですね。あれは、他の人ではできません。

 

 それに原田は要領を得たような、得ないようなところもあるし、山下亀三郎の様なところへも多分に持っていって、実に顔が広かった。それからあの男は正義ということには実にやかましい人物でした。決してやましいことには寛容しないのです。それからどこまでも皇室に対する忠誠、そういうことはなかなか見かけによらない点があります。そうして、勉強家です。内務省

外務省等政府の各種機関は勿論、民間の者、実業界の者と原田はいつでも電話一本で話せるというふうでした。不思議な人物でした。ただ口が悪い。衆人満座の中でも平気で悪口を言い放言をするものだから、誤解を受けることが多かった。

 

 名取 原田君が健康を害したのは努力の結果です。それに金には淡泊でしたね。住友からたいして貰わなかったのではありませんか。

大分借金をしておりました。近衛、木戸、原田というのは、京都大学の在学中からの親友で、また西園寺門下生というので非常に仲がよかった。晩年木戸の内大臣在職時代には、そのやり口に不満があり、原田は非常に憤慨して木戸に電話して「貴様、何しているか」という調子でやっつけるから、木戸の方でも原田を嫌いになったようです。近衛は寛容の人だから喧嘩はしなかったし最後までこの両人は仲がよかった。

 

 小汀 すると、ぼくは原田を少し甘く見過ぎていましたね。

 

 柳沢 いや、ぼくなども若い頃の原田が頭にあるので「何だ、原熊が」なんて感想がいつまでも残っていましたよ。  

 

○西園寺 公望(さいおんじ きんもち、嘉永2年10月22日1849年12月6日) - 昭和15年(1940年11月24日)は、日本公家政治家教育者。西園寺は当時静岡県興津に在住することが多かった。

 

原田 熊雄(はらだ くまお、1888年明治21年)1月7日 - 1946年昭和21年)2月26日)は、大正昭和期の政治家。


○山下亀三郎は山下汽船社主。大正成金のひとり。

 

○木戸幸一 近衛内閣の内大臣、東条の首班を昭和天皇に奏上した。木戸は東条が勤皇の志が強く、陸軍内部の徳望があるとして開戦を防ぐ人と見なしていましたが、結局は陸軍の内部に押され開戦しました。東条は開戦後は、自分の意見に合わないものは統帥を乱すなどとして弾圧し、東条専制、東条幕府などと呼ばれました。結局和平する機会を失いたくさんの国民を戦争で失いました。木戸は東条を奏上したことを悔やみ、戦後は公の場に出ることはありませんでした。