○雑誌「心」は武者小路実篤の新しき村運動を支援する生成会の機関誌のようです。明治20年前後生まれの文化人が執筆されていて、明治の雰囲気を伝える雑誌です。昭和30年代の「心」には明治人がたくさん登場します。古書店ではほとんど見られないので一般には販売していなかったのではないかと思います。

 

○武者小路公共の「二十三年ソ連垣間見の記」に明石元二郎大将の回想がありました。それをお知らせします。武者小路公共は実篤の兄、大正天皇のご学友。三国同盟締結時のドイツ大使だったと思います。心 昭和30年5月号

 

在フィンランド日本公使(1929年-1933年)時代の回想

 (前略)フィンランド外務省の人、他のいろいろ厄介をかける大官たちを招いたのだ。その宴会でもう七十を越えたかと思う招客の一人が私に日本の公使にお会いできるというお話を伺ってとても私は喜びました。私がフィンランド外務省在勤中にいつも日本の事務をとらされていましたので、ペテルブルグ日本大使館の方々とよくお会いしました。

 

  その中でも記憶に残るのは有名な明石元二郎大将だったのです。そこで明石元二郎将軍のことを詳しく話させてください。明石さんは非常に一辺会えば決して忘れられないような不思議な魅力のある人です。特にフランス語が達者で何でも長くパリ大使館に在勤したらしくしかも、パリ流エチケット等は眼中になく、いつも人を食ったような、しかも面白いことをいっていたのです。

 

  処が実は周到な計画を八方睨みの用心で準備されます。いつかペテルスブルグからここヘルシンキに出張されたときに私たち諜報勤務にお手伝いする者たちのため賞典をやるといって大枚千ドルくださいました。して大佐(当時大佐)のいわれるのに、実はもっと君たちにあげたいので、靴の底にしまってきたのだ。それで列車の便所へはいって、そっと紙幣を調べてみたところ、それが私の不要心さで、窓からサッと風が吹き込んで私の手にあった紙幣を便所の壺へ吹き込んだ。さあ!私は驚いて、手をつっこんだのだが、「事すでに遅し」だ。私は手をつっこんだが後の祭りさ、後でくさい手,いや腕に閉口した。それがあれば君たちにもう二千ドルもあげられるのにね!私たちもそれを聞いてがっかり。

 

 明石さんの計画はここ「ヘルシンキ」を中心に、もし一度日露の関係が緊張したら、いやロシアとフィンランドの関係でも悪化したらすぐ私たちを選って、露国内に忍び込ませ私たちの顔つきやことばが露西亜人と区別がつかないのを利用されよう。としたのです。私どもは自力ではとても露西亜に刃向かう力のない処を、大国日本にすがって、大事を起こそうと思って、じつに昼夜兼行で、いろいろな策謀を巡らせました。

 

  今になって考えると明石さんはここ北方私の国と連絡すると同時に、南方ペルシャやその間のアゼルバイジャンと連絡して、計略をはかっておられたのです。そこではバクー、その他裏海黒海沿岸の人達と密接な連絡をとって、いざ事あれば、バクー辺の石油源に放火し、騒乱を各地に煽ろうとされたのです。 後略

 

○明石元二郎は日露戦争を裏面で支えた諜報活動の責任者です。レーニンとも関係を持ち露西亜国内の反政府活動を支援したといわれています。明石は私がこれまで読んだ本の中には人柄を伝えるものは少なく、身の回りを構わず、歯磨きも月になんどかしかしなかった。とか、日露戦後使用した戦費の会計報告をきちんと処理した。といった程度しか分かりませんでした。しかし、本書では明石の人としての魅力やユーモアのある人だったことが分かりました。これは新しい発見でした。

 

○スカンジナビア半島の国は露西亜の政治的軍事的な圧力に長年苦しめられました。フィンランドではバルチック艦隊を撃滅した東郷平八郎にちなんで、TOGO BEER「東郷ビール」がつくられています。現在もあるはずです。

帝政露西亜の周辺国は同様に反露感情が強く。日本の対露戦に期待をかけていました。本書にあるように明石の周辺国に構築したネットワークは完成していたと思われます。これからの研究で明石の具体的な活動が現れてくることを期待しています。アジアの各国で親日国が多いのは日露戦争に勝利したことと、第二次世界大戦で蘭仏を植民地から撃退させたことが大きく関係しています。

 

○明石は後に台湾総督になり、なくなります。明石の遺言で遺骨の一部を台湾に埋葬しました。蒋介石政権が日本人墓地や台湾神宮などを第二次世界大戦後破壊してしまったのですが明石の墓は現存しているそうです。私は機会があれば台湾の明石元二郎の墓にお参りしたいと思っています。