○山梨勝之進大将(日露戦争時 大尉)はバルチック艦隊との海戦は勝つのは分かっていたと「歴史と名将」毎日新聞刊の中で言っています。この本は海上自衛隊幹部学校での何回かの講演をまとめたもので日本だけでなく欧米や支那の海軍に関する講話内容になっています。海軍の概略や思想を知ることのできる良書です。

 

○また、安保清種大将(日露戦争時 少佐)も戦前の随筆でたしか、日本海海戦の勝利を予測していた。と書いていました。今回はこのことを書くことにします。

 

●なぜ勝利を予測していたのか。

 

  ①バルチック艦隊はリバウ軍港を出るときニコライ2世の命令でほぼすべての艦で艦隊を編成してしまったこと。艦隊の進行は老朽艦のスピードに制限されてしまう。つまり、艦隊の戦場における運動も遅くなってしまうということです。

 

  ②バルチック艦隊は、日英同盟により途中艦艇の修理や船底の掃除が思うようにできなかった。イギリスが外交を使って妨害したようです。当時の軍艦は石炭を燃料にしていました。途中何回も石炭を積み航海をします。イギリスの妨害で石炭の積み込み港が制限され、バルチック艦隊は石炭を満載にして日本へ近づいてきます。艦隊の行動は在外公館やイギリスにより伝えられていました。

 

  ③バルト海から喜望峰、インド洋を廻ってくる大航海は過酷で兵員の戦意は低いだろうと予測していました。あまりの暑さに精神異常になった兵のあったことが伝えられています。

 

●問題はどの程度勝つかということだったらしいです。相手の6割を沈めても残り4割がウラジオストックへ逃げ込めば日本は制海権を取ることができません。結果としてこの海戦ではバルチック艦隊の9割以上の艦艇を沈め、または鹵獲しました。パーフェクトゲームを演じた経過を簡単に書きます。

 

      バ ○○○○○→           ←○○○○○ 日

・このように戦えば、お互いがすれ違うときに攻撃し、日本は反転してバルチック艦隊を追撃することになります。日露戦争の黄海の海戦では日本の追撃戦となり、追いつくのに時間がかかりました。お互いに反航しているので艦隊運動で陣形を立て直して追いつくのは時間が大変かかるようです。

     バ ○○○○○→ 平行戦に持ち込んで

     日 ○○○○○→ ウラジォストックまでに全滅させたい。

 

・平行戦にするには敵艦隊の接近に合わせて、全艦が一斉に180度回転する方法があります。これをすると艦隊の先頭を行く旗艦が最後尾になってしまいます。当時は無線装置が備えられていたわけではないので、旗艦から掲揚される旗旒信号や、手旗信号、発光信号などを後列の艦が見て伝える様なシステムになっていました。旗艦が最後尾にあっては戦えないのです。

 

   バ ○○○○○→              

        

                                         ←●○○○○ 日

            日 ●○○○○→ 

 

・ここで東郷は丁戦法をとります。有名な東郷ターンです。

           バ ○○○○○→ 

 

              ●→    丁の字のような形をとって、平行戦へ艦隊運動を

             ○       とっていきます。

            ○ ○ ○日

・先頭の●三笠(連合艦隊旗艦 東郷大将乗座)の後を艦隊は通って向きを変えていきます。

ですから、ロシアはターンする位置がわかり、そこに大砲の照準を当てれば、連合艦隊は壊滅します。バルチック艦隊司令長官のロジェストビンスキーは「これで勝った」といったようです。

 

○なぜ東郷は勝てたのか。

・バルチック艦隊は一斉に砲撃を始めます。海軍の砲術関係の本など読むと、砲は一度ではなかなか当たるものではないそうです。バルチック艦隊はそれぞれが無計画に砲撃したため初弾がどれだけ、ずれていたのか把握できずに修正がうまくできなかったと記録にあります。

 

訓練不足が響きました。

・日本は待ち構えていたので砲術計画や訓練、艦の補修、艦底の清掃が行き届いていました。

・日本は水雷艇を効果的に使用して魚雷攻撃を加えました。小型漁船のような水雷艇が接近して攻撃したため被害を大きくしました。この時の指揮官の中に終戦時の総理大臣鈴木貫太郎(日露戦争時 少佐)がいます。

・まだこのほかにも下瀬火薬の使用によって艦を破壊するよりも、艦内に火災を発生させ、戦意を失わせたこともあげられています。

 

○新潟の山本五十六(日露戦争時 少尉候補生)はこの時軍艦日進の砲術員で、負傷をしています。

 

○バルチック艦隊との海戦は当時の国民の一大心配事でした。昭憲皇太后はある夜、白衣を着た武士が現れ、武士は坂本龍馬と名乗り「ご心配の海戦は私が勝たせます。」という夢を見ました。当時坂本は関係者しか知らない無名の人でした。

 

○皇后は皇后大夫の香川敬三にこの話をされ、関係者の大浦兼武や旧土佐藩の出仕の者から資料を集め皇后に呈上されたようです。結果は夢に立った坂本のようになりました。わたくしは、明治の雑誌でこの内容を読んでいました。これは作り話だろうと思っていました。

 

○先年京都の霊山神社に参拝して坂本の墓を訪れたときに坂本の墓のとなりにこの予言の記念碑が建っていて驚きました。この後坂本龍馬の名前は一般に広まり事歴も知られるようになりました。また、他の方の研究では「明治天皇記」(政府の出した公式の明治天皇の御事績)にも記載されているそうです。