○明治17年に新潟県へ提出した寺田の教員免許に関わる文書です。
お願いをもうしあげます
中蒲原郡沼垂町住 士族
同郡蒲原校校長准十二等 兼訓導
寺 田 徳 裕
右は旧会津藩士にて幼年より深く学問に志し広く和漢の書を学び、最も孔子孟子の学びが深く、忠孝仁義の道を研究した学問を実行する老儒学者であります。廃藩以来当国に遊歴し多くの生徒を教えてきました。明治五年申年当町の有志が協力して招き、児童の教育を依頼しました。同人は懇切に教育を施したので、僻地ではありますが、だんだんと教育が浸透し、頑迷な風俗もだんだんと改良されてまいりました。現在に至っては人民の知識も開け、学事にしたがうようになりました。これは天皇の御代のありがたさであるとは申しながら、ひとえに同人の教授の功労にあるといわなければなりません。これに加えて近来浮薄の者たちがなにかとよこしまな説を訴える自由党に類する者たちの勢いが盛んになり、各地に分派ができ国家にとっては憂うべきことであります。同人はこのような状態を深く憂い、厳しく生徒を戒めもっぱら、我が国固有の忠孝の道に戻すことを志し、朝夕に青年たちを集め忠孝仁義の道を説き聖賢の教えを広め、邪説に関わらせませんでした。このため危機に陥るところでありましたが、青年たちの思想は変することなく、ひたすら悪い思想を矯正し、ついに当町の邪党を消滅することができました。恐れながら、このことは同人が国家のためと心に決めて行ったことであり、思想や行いに特に優れているからでございます。一昨年は学問に優れた老儒学者ということで、御優待をいただき修身の学校免許をお許しくださり、三等訓導を仰せつけられました。これにより、今までの同人の功労を顕彰していただき私どもまで有り難くお受けしたところであります。しかしながら、三等訓導というのは師範学校通常科卒業生の資格でございまして、今後師範学校高等科卒業生が二等訓導の資格を持ちますので、学問に優れた老儒学者として特別に御優待くださりながら、これでは師範学校卒業生より一等下がってしまいます。それゆえ首をたれて、その下座に列するようになってしまうのであります。その上位の中には同人の門弟も少なからずおります。今まで通り三等訓導をいただいたままでは、先年特別に御優待くださったことも、これでは同人の名誉を失うことにもなりかねません。私どもにとっては嘆かわしい事態となります。しかし、同人の褒賞につきましては学務委員より事ごとに請願をおしていると承知しております。これまでの経過をおくみとりくださって特別の審議をいただき、この節より相応の等級をいただけますよう私ども一同懇願いたします。
門弟総代
中蒲原郡沼垂町平民
沼垂校三等訓導
明治十七年五月二十八日 宮 川 三 五 郎
同
沼垂校五等訓導
島 垣 守 橘
同郡蒲原村平民
鈴 木 令 吉
○明治も17年になるとだんだん近代的な制度ができつつあったころです。例えば本書では、寺田は旧幕府の教育を受けた人ですから、校長とはいえ教員免許状は本来ありませんでした。特別の例として修身の免許状と三等訓導の資格が与えられています。師範学校を卒業した教師が二等訓導であれば寺田は下座につかなければなりません。実際に沼垂小学校の卒業生や有隣館の子弟が教師となり寺田よりも上座につく様な時代がやってきたのです。
○このような例は高等教育でも見られました。幕末から明治20年代ころまでは、御雇外国人が教育に当たり、教科書や言語はすべて外国語でした。学生は語学を習得しなければ授業についていかれない時代でした。外国で教育を受けた留学生が帰国すると大学や高等学校の教授となり御雇外国人はだんだんと解雇されます。日本が新制度に生まれ変わろうとするために、旧制度が消えていくのはしかたのないことです。