○沼垂に残された寺田の履歴をこれから何回かに分けて書いていきます。原本は漢文混じりの読み下し文なので分かりやすく現代文に直しました。これは、寺田德裕の功績を新潟県庁に具申したものと思われます。書かれたのは明治末と推定されます。()は筆者補注、判読不明な文字は□で表しました。


  ●先生が羽越漫遊中、北蒲原郡諏訪山村、大野耻堂先生を訪ね、ついに先生に師事されたのか、まもなく西蒲原郡小新村に招かれ、亀貝村里正(庄屋)坂井氏、黒鳥村里正鷲尾氏、寺地村里正斎藤氏、立仏村里正阿部氏、板井村里正萩野氏等と協力して塾を開き近村の子弟を教授されたという。この年九月初めて斗南へ行かれ十月再び小新村に帰られた。この後、小新村にいること三年になり、明治五年十一月沼垂町に転住ししばらく島垣氏や蒲原村小杉氏に寄食された。これより先、沼垂町島垣、川合、真野の諸氏は沼垂に子弟を教えるべきよい師のないことを嘆き、よい師を長年求めていたのである。この年政府が学制を頒布したことを機会に先生を招いて校舎を建てることにし、町の官吏と相談してついに先生を招くことと決まった。翌明治六年春もとの海蔵庵を校舎にして、校名を有隣館(徳不弧必有隣 から名付けたものと思われる。)と名付けた。学校では儒学を専門に教えたが、この後小学例規の発布があり、先生は小学校の教師となり、そのかたわら漢学を教えられた。明治九年に官准(官立の準拠か?)を得て私立有隣館を設立し、小学校勤務の余暇に子弟を教養された。明治十三年春小学校を辞して漢学の教授に専念された。この後一年後小学校が一時経営困難を生じたとき、町民の要請で再び校長となられた。それから、当時碩学孝儒(学問に優れた者、儒学に優れた者)には特に修身科教員を名乗ることを許されたので、訓導を兼ねられた。後、明治十七年蒲原小学校新設に当たり、同校に招かれ転任された。明治二十二年小学校を辞められ私塾の教授に専念された。

 沼垂町は昔は朝廷より柵を置かれ、屯営を建てられたという長い歴史を持つ土地柄である。又、清少納言が枕草子を出したという美久理神社のあるところであるので、土地は繁華であるが、飛鳥川抜け、その後いく度が洪水に見まわれ延宝八年(一六八0)大堀(判別不確)村へ移転、新川開削されることになり、新潟町から訴訟されることがあった。明治四十一年を距てること二百二十八年(この部分判読不確)まえのことでる。近年は海で漁する漁師、北海を航行する船員が多くなるにしたがい、風俗も下卑てきて学問とは疎遠になってしまった。先生が来てくださって教えをくださり二十年以上子弟を陶冶していただき天皇の御代に力を尽くされたのである。

 

○大野耻堂 新発田藩の儒者

○沼垂町は信濃川をはさんで新潟町に対する位置にありました。江戸時代は新発田藩領でした。新発田藩の年貢米は沼垂の新発田藩米倉に集められ、ここから大阪の堂島などへ送られました。赤穂浪士堀部安兵衛は元は越後新発田の浪人です。沼垂の米倉に勤務していたことがあると伝えられています。安兵衛手植えの松など倉の周りには杉の大木が巡らされ、日光を防いでいました。明治になり、倉の取り壊しとともに沼垂小学校が建設され何本か残っていた杉の大木も大東亜戦争の供出で切り倒されました。戦後残っていた1本も、倒れる危険のため切り倒され現在は残っていません。上の写真をご覧ください。

○沼垂は米の集積地であると同時に近郷の人々が集まる商業地であり、農民や漁民も多くいました。武士はごく少なく、沼垂町は島垣、川合、真野の諸氏のような町役人が藩から行政の指示を受けていました。

○海蔵庵は別の史料では海蔵寺と表記されています。明治6年の学制発布では、小学校の設置が現実には間に合わないので、私塾をそのまま小学校として届けた例が多くあります。

寺田の有隣館はのちに小学校が建設されると私塾として平行して存続していきます。寺田徳裕は初代の沼垂小学校校長となりました。のち、校長を辞職の後は有隣館の運営に専念します。

○新潟町との訴訟 新潟町は長岡藩支配から幕府支配新潟奉行が置かれました。沼垂側は沼や潟が多く排水のために信濃川に用水を切ろうと計画しますが、信濃川に泥水や土が流入すると新潟の港が浅くなるために対立し訴訟に発展することがありました。訴訟に外様の新発田藩が勝つことはありませんでした。

○沼垂町は大正3年新潟市と合併しています。