○沼垂に残された寺田の履歴をこれから何回かに分けて書いていきます。原本は漢文混じりの読み下し文なので分かりやすく現代文に直しました。これは、寺田德裕の功績を新潟県庁に具申したものと思われます。書かれたのは明治末と推定されます。()は筆者補注、判読不明な文字は□で表しました。

 

● 先生が寺田家相続の式をあげられたときは圧死した当主の遺骨を拾い刀剣の焼け身を集めて酒盛りをして式としたそうである。先生は同藩の小山氏の娘をめとり一女一男を産む女子は夭折し男子徳明氏後を継いだ。後に同藩渋井氏の娘をめとる。一男一女を産むも皆夭折した。
 

   弘化四年(一八四七)幕府は会津藩に房州(房総半島)の守備を命じ外敵に備えさせた。この当時は欧米各国が近海をうかがい船影が出没していた。ということから、命ぜられた役である。先生は父君と房州に移られ七年おられた。嘉永六年(一八五三)アメリカの使節ペリーが浦賀に入った。幕府は砲台を品川の海に築き会津藩に守衛を命じた。ここで父君は江戸詰めとなり、翌年安政元年(一八五四)歳二十七父君に従って江戸邸に入られた。房州を出るときに詠われた和歌         海士の子もややなれそめし唐衣   ただまく□(を?)しき安房のうら波

又、房州にいらっしゃったとき詠まれたものの中に頼山陽の雲耶山耶の詩を思い出してと題され
  唐土はそれかあらぬか白波の
      雲井はるかに見ゆる山眉

 

○寺田徳明のち、父の後をついで沼垂小学校校長

 

○「弘化四年(1847)会津藩江戸湾警備が再開、房総半島の上総富津と竹岡に陣屋と砲台を構え東海岸警備に就いた。松平容保が18歳で会津藩主となった翌嘉永六年(1853)アメリカ司令長官ペリーが艦隊を率いて浦賀沖にやって来た(黒船来航)。対岸の会津藩水軍も黒船来航の警備に加わった。ペリーが去った後、会津藩は江戸湾の 品川第二砲台場の防備に着任し、安政六年まで続いた。」会津若松市ホームベージより引用。