

〇現存する色部長門追念碑。新潟市中央区関屋下川原地内
〇これまでいくつか、新潟市付近の戊辰戦争の記録について書いてきましたが、当年の生存者、斎藤巳三郎の回想を見つけましたので、これを書いていきます。
〇原文は旧漢字で慣用句、熟語等不明な部分がありましたのでいくつか書き直した部分があります。
●新潟混乱、軍使派遣のこと
●二十九日未明から最後の総攻撃を開始した薩長軍は二十九日明け六つ時過ぎに至り字白山浦島(現在の市役所近く)へ小舟で押し渡り食い違い外へ出て、ここでもものすごい切りあいが始まった。仙台、会津、米沢の諸藩軍は刻々追い詰められ形勢すこぶる不利。薩長兵の勢い実に当たるべからざるものがあった。
●すなわち大川前(現在の礎町付近)から寺町(現在の西堀通り付近)までの五条の道すじはもちろん、浜道までも薩長軍が乗り込み随所に東北軍との間に白刃がきらめき、斬り合いが演じられ東北軍は算を乱して敗退するという有様であった。この間において古町通り下神明西側はりまや五兵衛方から一か所、古町通り二の町東敦賀屋存右衛門から一か所、寺町二の町から一か所に薩長兵は火を放った。
●この兵火は五つ時過ぎまで燃え続けたが、東北諸藩兵の残らず退散したのちにおいて薩長兵の手で消し止めたのである。この兵火による焼失住家は五百戸といわれる。平定とともに長州隊長高須梅三郎は町会所に入り「長州本隊干城隊」と入口に張り紙した。
〇新潟町は市街戦の場となり、劣勢の東北軍は町に火を放って退却します。明治までの国内戦では民家を焼き払います。一面の焼け野原にして敵の動きを見定め、遮蔽物を取り除くことにあります。