

〇現存する色部長門追念碑。新潟市中央区関屋下川原地内
〇これまでいくつか、新潟市付近の戊辰戦争の記録について書いてきましたが、当年の生存者、斎藤巳三郎の回想を見つけましたので、これを書いていきます。
〇原文は旧漢字で慣用句、熟語等不明な部分がありましたのでいくつか書き直した部分があります。
●念仏寺へ色部の首級始末
●関屋方面では二十九日の払暁戦で金鉢山を占領し、ここで一息ついた薩長軍の先発隊は夜明けを待って新潟攻撃の行進を始めた。少し遅れた少人数の後続部隊がこれまた道を国道に取り関屋地蔵堂(斎藤邸上手脇、現存)に来ると頭の役らしい者が「あれはなんだ」と問うた。とその言下に薩長軍とともに来た新発田藩の案内者は「敵の陣屋である」と答えたので「焼き払ってしまえ」と命令し、たちまち火を放って焼いたのである。
〇薩長軍は地理不案内の敵地を索敵しています。当時は雑木林のようなさびしいところにあった地蔵堂ですから、新発田のよそ者が陣地と報告したのは止むをえません。
この地蔵堂は私が高校のころに甕にの中に経文が書かれた石が出土したというニュースがあったように思います。私が小学生のころはお年寄りが集まって御詠歌をあげていました。
●その焼き払いの話をしているとき、あたかも海岸に避難すべく地蔵堂の前を通りかかった斎藤家の出入りの百姓庄左エ門老が、これを耳にするや大いに驚き一刻も早く家人に伝えんところばぬばかりに斎藤家の裏口から駆け込み「まごまごしていたら危ないから逃げろ、逃げろ」と叫びつつ事情を急報する。藪から棒の話ではあるが一刻も猶予できぬという尻から火のついたような庄左エ門の知らせに主人斎藤金衛氏ははだしのまま、わずかに皮文庫一つだけを抱え裏口から庵寺脇の細道を伝って逃げたものだ。
〇斎藤氏宅から地蔵堂までは徒歩で五分ほど、そこで火が出たのですから斎藤氏の驚きは並大抵のことではありません。
●こうしてとにかく逃げ出しては見たが、外は東北軍がその辺に潜伏してはいぬかと、鵜の目鷹の目で一軒一軒家探しして歩くという厳重な詮索ぶり、この風体では危険でならぬ、何とか変装でもしなければ助からんと道すがら渡辺市平の家に飛び込んだ。ところが、同家でも今非難しなければならんという大狼狽の真っ最中、そこへ斎藤金衛氏が来て「なんでもいいから貸してくれ。ぼろ着物でいいんだから」といったところ「旦那様これでよろしうございますか」といって投げだしたぼろ着物、漁師の作業着、それと髷を隠すために笠を借り受けると飛び出して念仏寺へやってきた。
〇江戸時代はその人のなり、服装や髷の形、刀のこしらえなどである程度の身分が判別されていました。彰義隊の戦争の時も落ち延びた武士は商家などでぼろの着物を借りて農民のなりで逃げ延びています。輪王寺の宮様も身分のわからない格好で水戸へと落ちていきました。
〇斎藤金衛氏は大庄屋ですから身なりを見れば土地の者ではないことが分かってしまいます。それで、あわてて身を隠したのです。