人は見たいように見る
というのは、かの有名な
ジュリアス・シーザーのフレーズ(の翻訳)
見ている情報は、
見たいように見ている情報だし
聞いている話は、
聞きたいように聞いている話だし
感じている感覚は、
感じたいように感じている感覚。
その現実、本当に現実
例えば、
自分がガンであることが発覚した時。
いきいきと生きてる人の話
と
残念ながら亡くなられた方の話
あるいは
闘病に苦しんでいる人の話
どっちかを取りに行きませんでした
意識的ではないにしろ、
どっちかに傾倒して
情報を得てませんでしたか
仮に、闘病に苦しんでる人の話
をほしがっている場合・・・
「いきいきと生きている人の話」は
例外として処理して、
苦しい話、つらい話、かわいそうな話…
こぞって、選って、仕入れてない
公正平等、中立的な視点で、
物事を見たと言えますでしょうか
見たいように見てると自覚する
言いたいことは、
中立的な視点で物事を捉えろ、
というわけではなく。。。
偏った情報の仕入れ方をしときながら、
中立的な仕入れをしたと思うな
ということです。
その情報、自分で取りにいってます。
新しい情報を取りに行ったように見えても、
自分が「ほら、やっぱりそうでしょ」
と確認するためだけの情報だったりします。
願望ではなくて、予想で見てる
この場合、
「こうであって欲しいな」という望み
ではなく、
「こうなんだろうな」という予想
で、情報を取りに行ってる。
抗がん剤は苦しいものだろうな
という予想をしている場合。
「抗がん剤苦しくないといいな」
と望みながらも、知らず知らず、
「抗がん剤が苦しい」という情報を
求めてネットの波の中で波乗り
人生もなりたいようになるとしたら
ココからは仮説。
情報に関して、
自分が見たいように見る
という話をしたのだけど。
人生も見たいように見れる
つまり、そうなりたいようになる
のならば。。。
「こうなりたいな」の希望ではなく
「こうなんだろうな」と予想した人生が
自分の人生になるように
なっているのだとすれば。。。
自分のなりたい人生を
予想すること
なりたい人生を
自分で取りに行くこと
が大事なのではないかな
と、思いました。
過去の記事。
人生論考シリーズも宜しく