宗教教団について。 | 明主の浄霊・救霊ブログ

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いかなる状況にあろうと、私は見捨てない。死にそうな人。入院中の人。信仰をとがめられている人。精神病院に隔離されている人。神様や仏様は信じられても、教団にそぐわない人。死ぬのが怖い人。生きるのがつらい人。皆私を頼りなさい。

教団は確かに力は持ちます。

しかし、次第に企業になります。

ということは、本来の純粋な信仰が

教団運営のため、ねじ曲げられます。

それが、問題なのです。


集団の力はたいしたものだが

次第に神様から離れていく。


それがないといえばうそになる。


お導きこそがすべて
立派な建物に派手なパホーマンス
に献金強要など。

それらは本来の姿とは違う。


神様は立派な社は必要ない。

それは教団がかつてに作り出したものである。


必要なことは、建物や美術品などではなく、

一人一人の心のありようです。

もはや教団を作っていく必要はない。

それらが、反社会的行動をして、

そこで生きていくことを思考するものまでいては

本来はいけない。


神様や仏様のお知恵をいただくことは

必要である。

しかし、幹部の言いなりになれとは

神様は一言もおっしゃつてない。

常軌をいっする行動は

間違っている。

私が言いたいのはそういうことである。


また、本だけ読んで頭で理解しょうというのも

いけません。

宗教は体得するものだからです。


本だけ読んでわかったような気分でいるのは

間違いである。

体得して経験をつみ、しみじみとわかってくるものだからだ。


皆の心が澄み切り、神様のお社に人間がなるのが理想である。

ところが、神ががりすると、精神に異常をきたしたりすることもある。
お光とはそのための存在である。

いわばお守りとして、また浄霊のための

ブースターとしての機能を果たすものであり
なにも、犬の首環ではないのだ。

それは神様に支配されず
神様と対等にいれるためでもある。

弱い自分を守ってくださるのであるから
人がかけていようが非難しては行けない。

むしろ、お光をかけない方が

おそろしいことだ。

お光もかけず、浄霊をすれば

その人のエネルギーが他人に移る。
それではやつれてしまうぞ。


それでよければそうすればいい。

私は自らの体験から

体に神様や霊に取り付かれるより
絶対お光をかけた方が合理的である。

長くなるので、今日はこれくらいにする。


神慈秀明会の浄霊方で問題ない。

この画像に向かい二回、明主様ありがとうございますと言う。
前額部第三の目、眉間辺り、二分、頭頂部、百会のつぼ辺り、三分で十分。

一日何回受けてもかまわぬ。



病気でなくても毎日受けなさい。
疲れたとき受けなさい。

リフレッシュできます。

なお、お金は要らない。
画像を落として祈ってもかまわぬ。

うそや、まやかしと思っても受けていると

幸せや元気になれる。

これを嫌うものはゴキブリのように
光を嫌うものである。

やましいことがないなら受けられはず。


岡田茂吉の浄霊ブログ