一方、道元の学んだ禅は、只管打坐と言われるように、静かに座禅をするもので、真言や観想は用いません。例外として、水の質と一体化する水想観などもありますが、通常は印だけです。そしてひたすら「身心脱落」を目指します。

 

 これは文字通り、身(肉体感覚)と心(意)を消失させることですが、一気にそこに至ることはできないので、「身」から「心」へと段階を踏んで消してゆきます。そして意(心の働き)の場である識(フィールド)だけが残るようにします。そうすると、自らの仏性(真我)を観ることができます。これは、「ヨーガスートラ」の手順そのものです。


 つまり、空海の瞑想はハタ・ヨガなどの密教系ヨガの原理に、道元の瞑想はラージャ・ヨガ(ヨーガスートラのヨガ)やジニャーナ・ヨガ(ウパニシャッドのヨガ)に類似しているのです。

 

 私は、原理的に前者を「足し算と掛け算のヨガ」、後者を「引き算と割り算のヨガ」だと理解していますが、いずれが正しいとかではなく、相互に補完し合う関係だと思っています。

 

 臨済宗の日本の開祖である栄西などは、禅と密教の両方を指導していましたし、チベット仏教も歴史的にみて後期大乗仏教と禅の融合したものだと言ってもいいでしょう。今でもチベットの複数の僧院には、禅の「十牛図」によく似た図が残っています。

 

 何はともあれ、ヨガの本質を知るためにも、身体的なヨガと瞑想をバランスよく練習されることをお勧めします。