2003年の日記から―104
昔書いた日記からいくつかアップします。2003-5-20少林寺拳法-1 守・破・離①今日本棚の整理をしていたら、29年前の教本が出てきた。懐かしく読んでいたのだが、ヨーガに通ずる所も多いので引用する。「守・破・離」の原則は覚えておくといい。きっと役立つことだろう。<参考>『すべての技芸、すべての学問、すべての道-およそ「まなぶ」という言葉であらわされる事をやっている全ての者が守らなければならぬ原則として、「守」「破」「離」という三つの訓が昔から伝えられている。少林寺でも、これを「拳の三訓」と呼んで、学科の中の重要項目として取上げている。「まなぶ」という言葉は、もともと「まねぶ」から変ったもので、要するに「まねをする」ことである。何事でも、はじめは「まね」をすることから始まってくりかえしているうちに、すっかり自分のものになってしまうものである。「くりかえす」ことは「ならう」という言葉であらわされる。「まねびならう」で「学習」 になる。 我々は、生れおちた時から、本能で動くもののほかは、すべて学習によって獲得し、少しずつ自分の能力を増大して来た。学習を止めた時は生長が止る。「習う」ことをやめると老化がはじまり、折角「学んだ」ことも、はじめから忘れて行くものである。さて、話を元に戻して、「守」とは、「師の格に至ること」「破」とは、「師の格を変形すること」「離」とは、「師の格から出て、己れの格を生み出すこと」であり「格」とは、「ゆきつくべき、正しいところ」をいう。 道を学ぶものは、まず、正しく師の教えに従い、師の形を学び、その形の「格」に到達することを目標とし、自分勝手な解釈をして、我流にはしることのないよう戒めなければならない。これが「守」である。この第一段階が十二分に満足できるようになった所で、次の段階に進むことが許される。すなわち「破」の段階であって、ここではじめて「自分の特質を加味」して、「法にかなう範囲」で「変形」することが許される。最後の「離」は、「師を超え」「自由な創造」が許される段階である。この域に達してはじめて「出藍のほまれ」が与えられる。 以上の三つの段階で、共通の原則となるのは、いずれも「法にかなっていること(その技の目的に適しており、無理がなく、無駄がないこと)と、「正しい格に入っていること(でたらめでなく、正しい姿からはみ出さないこと)」の二つが必須条件となるのであって、「離」だからといって、とてつもないことをはじめたのでは、その道から、文字どおり本当に離れてしまうことになる。もっともわかり易い例として、いつもひきあいに出されるのは、書道における「楷書」「行書」「草書」 である。正しい楷書は、一点、一画のおき方まで、先生におしえられたとおりに正しくととのえて、はじめて書くことができる。 行書は、楷書が正しく書けるようになってから、はじめて自分の特質を加味しながら、書いてもよいと許される。すなわち、「楷書が正しく書ける」ということを条件として、それを「法にかなう範囲で」くずしてもよいということである。 それから、いよいよ上達して、楷書、行書ともに自由にこなせるようになったら、はじめて草書を書いてもよいというお許しが出る。草書は「元の字とは見違えるほど離れてしまってはいる」けれども、決してでたらめではなく、楷書から発した法にかなう、正しい格に入った、字でなければならないのである。』(少林寺拳法教本より、1974年発行)とても参考になります。合掌