禅の源流はヨーガだと言われています。確かに、ヨーガスートラのディヤーナが漢字に音写されて「禅那」となり、それが「禅」と略されて使われるようになったわけですし、技術的にも似ていますので、「坐禅はヨーガの瞑想法から生まれた」と考えてもいいと思います。

 

 坐禅は当初、姿勢を正して半眼で静かに坐るように習いますが、この他にも経行(きんひん)という歩きながら行う歩行禅(瞑想法)もあります。ですが、ヨーガの瞑想(特にジニャーナやラージャ・ヨーガ)では、クリシュナムルティも言うように、形式にこだわる必要はありません。

 

 ヨーガスートラでも「坐法(アーサナ)は、安定して快適なものでなければならない」(3-46)と定義されているだけです。


 ではどうすれば、「坐」に安定と快適さが得られるのでしょうか。

 

 ヨーガスートラを見ますと、「そのような坐り方は、緊張をゆるめ、心を無辺なものへ合一させることによって得られる」(3-47)とありますが、これはかなりハードルが高いと言わざるをえません。

 

 つまり、坐った姿勢が綺麗だとか、1時間くらい足が痺れないで坐っていられるとか、片足立ちのアーサナでバランス感覚を鍛えればいいとか、そんなレベルの話ではないからです。

 なぜなら、そんなことでは「心を無辺なものへ合一させること」などとてもできないからです。