「いや、坐禅の瞑想は数息観だけじゃない。軟酥(なんそ)の法だってあるぞ。」という方もいるでしょう。

 でも、白隠慧鶴禅師の伝えた軟酥の法は禅病の治療法であって、通常の坐禅で行うものではありません。

 

 釈迦や達磨は坐禅によって悟りの境地に至ったとされていますが、それでは彼らの坐禅も数息観程度のレベルの低いものだったのでしょうか?それとも毎日「軟酥の法」を練習していたのでしょうか?

 いや、そうではありません。そんなものでは、とても禅定には入れません。


 では、禅僧が言わない坐禅の極意とは、いったいどのようなものなのでしょう?
前述の「数息観」程度が坐禅の瞑想法だとすればなんとも情けない話ですが、実際には禅定経典または禅経といわれる類の技術書がいくつも伝承されています。


 たとえば「大安般守意経」「坐禅三昧経」「仏説首楞厳三昧経」「達摩多羅禅経」などがありますし、また摩訶止観、天台小止観なども古くから坐禅の手引書として重宝がられています。さらに、瑜伽師地論、正法眼蔵なども有力な参考文献です。

 

 これらは坐禅の具体的な修行法と階梯について説かれた貴重なマニュアルであり、「ただ静かにすわっているだけの坐禅」など勧めてはいません。

 一般向けの坐禅会では、なかなかこのような専門的な技法を学ぶことはできませんが、坐禅本来の妙味はまさにここにあります。

 

 ところで、禅の源流であるヨーガにも、禅に負けないくらいの深遠かつ精密な瞑想の技法があります。

 サマディの為の瞑想とは、具体的に如何なるものなのでしょうか?