「閑坐」という禅語があります。

 

 佛教語大辞典によれば、「空虚な坐禅をすること。むだな坐禅。ただ静かにすわっているだけの坐禅」という意味が最初に出てきます。もちろん「閑」にはネガティブな意味だけでなく良い意味もありますが、問題は、「ただ静かにすわっているだけの坐禅」が「無駄で空虚な坐禅」だという点です。


 そう言うと「ただ座っているわけじゃない。数息観によって心を鎮めて、無念無想になろうとしている。」という方もいるでしょう。確かに参禅会に行くと、足の組み方、印相(手の組み方)、坐相(坐る姿勢)、目線(視線の向け方)、調息(呼吸の仕方)などと共に数息観を習います。数息観とは、呼吸を数えることで雑念を抑え、心を静める効果があるとされています。


 ところで、空とか無と言われる境地は無念無想の延長線上にあるわけですが、頭の中を数字で埋め尽くすことは、明らかに無念無想に逆行する行為です。

 眠れないと訴える子供に母親が「羊さんを数えなさい」と言いますが、数息観は所詮羊を数えるのと大差ありません。呼吸か羊かの違いだけで、頭の中は数字で埋め尽くされます。そのうち数えくたびれてうとうとと眠くなることでしょう。

 警策好きな方ならそれでもいいかもしれません。少なくとも坐禅をしたような気にはなれます。