ヨーガスートラは、ご存知のように「心の作用の止滅、純粋観照者の出現」(止観)そして「真我独存」を目的として書かれています。従って、マントラのチャンティングや、観想の多用、集中方法の工夫などは、ヨーガスートラの目的に逆行するものであり、「止観」にはまったく役立ちません。
では、偉大な先賢たちの説くサマディのための瞑想とはどのようなものなのでしょうか。
佐保田鶴治博士は、「ラージャ・ヨーガやジニャーナ・ヨーガは何をイメージしたらよいか」という質問に対して、「禅」と答えたそうです。賑やかでデコレーションの多い瞑想法なるものが役立たないとすると、黙然と座り続ける坐禅のような瞑想がよいというわけでしょうか?
「ひとり静かに坐して印を組み、呼吸を数えながら心を落ち着かせる。
時折雑念を打ち消しつつ、ただひたすら座り続ける。」
でも、それが坐禅やヨーガスートラの瞑想だと思ったら大きな間違いです。
その程度では「悟りの境地」つまり禅定(サマディ)には到底入れません。