つまりウパニシャッドの瞑想とは、グルの傍らに座り、さらにグルのまとったサマディの質と同一化するものに他なりません。そして、それこそがジニャーナ・ヨーガなのです。


 道元は名著「正法眼蔵 弁道話」で次のように説いています。

 「端坐参禅を正門とせり」「自受用三昧、その標準なり」。

 参禅とは師家についてその傍らに座り坐禅を組むことであり、「自受用三昧」とは受動態(同一化)を本義としています。

 この事からわかるように、座禅とは(見性するまでは)一人で組むものではないのです。道元はまさしくウパニシャッドと同じスタンスだったといってよいでしょう。


 ところで佐保田鶴治博士の著書にもあるように、グルの指導はマンツーマンを原則としています。

 「対個人的に一対一の形でなされるべきもの」(「ヨーガの宗教理念」)。

 なぜそうなるのかと言えば、グルの指導は、弟子の真我の状態をチェックして、その時々に必要なサマディの質をグル自らがまとい、それに弟子を同一化させることで霊性の向上を図るからです。

 

 サマディには180以上の階梯がありますので、それらを目的別に使い分けることになります。(このように一対一の時はカスタマイズして対応しますが、もし大勢を相手にする時は、最大公約数的な考え方を採用します。

 但しこの場合、全員にわからせるのは難しいので、ラーマナ・マハーリシのような偉大な聖者でも、傍らに坐った人のうち数人だけにヨーガ的神秘体験が起こります。)