全ての経典の中で釈迦の言葉が最も多いとされる最古層の原始仏典「スッタニパータ」の最終章では、「信仰を捨てなければ彼岸(サマディ)に至ることはできない」旨説かれています。
 

 佐保田鶴治博士の「ヨーガの宗教理念」には、あるヨーギがどうしても信仰を捨てきれず、見かねたグルがガラスの破片を彼の眉間に突き刺して、信仰心を切り離そうとした逸話も出てきます。(彼はその後ようやくサマディに入ることができました。)

 

 要するに、観想や信仰等、余分なものがなくならないと、本来のサマディに入ることはできないということです。

 

 私が真言密教を離れたのは、この辺りの原理を知ったからですが、護摩行をはじめとする修法や、生きるか死ぬかギリギリの荒行体験はムダではなかったと考えています。自分で命懸けの修行もせず、師の言葉を適当につなげて知ったかぶりをするのは簡単ですが、修行とは、先師の悟り体験を自らの悟りを以って検証する作業でもあるのです。それが本来の「瀉瓶(しゃびょう・・瓶の水を他の瓶にうつしかえる意味から、奥義を師から弟子にもれなく伝えること)」なのです。

 

 ハワイへ行った事もない人間が、ガイドブックだけ、或は行った人(師)の言葉だけを頼りに、さも自分が行ったかのように語るのは、間違っていると思います。できないことを、できたように言わないことです。「知るを知ると為し、知らずを知らずと為す。是知るなり」(「論語」為政篇)