また古ウパニシャッドには、真我の観え方の階梯として、①ぼんやりと、②不明確に、③くっきりと明確に、と三段階記述していますが、実際には、それに加えて、真我の輝きの「大きさ」と「強さ」という階梯も忘れてはなりませんし、さらに言えば、垢染の度合いによって、透明度も異なります。
 

ヨーガの瞑想は、とても深遠な世界です。

ヨーガスートラの説く「心の作用の止滅、純粋観照、真我独存」は、瞑想の入り口に過ぎません。自分の真我が観えてから、真の瞑想が始まるのです。


瞑想というと、何かのイメージを思い浮かべたり(観想)、マントラを唱えたり、集中を繰り返したりと、作為的な努力に専念することだと思っている方が少なくありません。ですが、それはヨーガスートラの説くサマディの為の「瞑想」とはかけ離れたものです。


例えば、道元は名著「正法眼蔵 弁道話」で次のように説いています。

 

「参見知識のはじめより、さらに焼香禮拜念仏修懺看経もちゐず、ただし打坐して身心脱落することをえよ。」


祗管打座つまり坐禅こそが正伝の仏法であり、読経も礼拝も全て用いない、と宣言しています。そしてただ声をあげてお経を読んでいるのは、春の田んぼのカエルが昼夜暇なく鳴いているのと同じで「益なし」、と断じています。実に確信に満ちた見解です。


私の尊敬するクリシュナムルティも「クリシュナムルティの瞑想録」(平河出版)において

「瞑想は言葉を反復することでも、まぼろしを目のあたりにすることでも、あるいは沈黙を養うことでもない。数珠や経文は、精神の雑音を静めはしても、結局のところ一種の自己催眠にすぎず、催眠薬を口にするようなものである。」と明言しています。(「数珠」とは、数珠を括りながらマントラを繰り返し唱えることの意)