瞑想というと、何かのイメージを思い浮かべたり(観想)、マントラを唱えたり、集中を繰り返したりと、作為的な努力に専念することだと思っている方が少なくありません。ですが、それはヨーガスートラに於ける「瞑想」とはかけ離れたものです。


そもそも「瞑」とは、瞑目というように、「閉じる」「閉ざす」という意味なのです。

ですから瞑想とは、「想」つまり心の「相(置かれた状態、表れ)」を閉ざすことを意味します。それはヨーガスートラに於ける「心の作用の止滅」(「ヨーガ根本経典」佐保田鶴治著、1-2)そのものだと言っていいでしょう。


ヨーガスートラは、「心の作用が止滅されてしまった時には、純粋観照者である真我は自己本来の状態にとどまることになる」(1-3)と説明しています。つまり真我には、純粋観照者としての働きがあるということです。

 

心の作用が既に止滅しているわけですから、ここでは集中も観想もマントラもありえません。従ってヨーガスートラの瞑想とは、自然無為の純粋観照の世界なのです。


さてこの純粋観照者である真我ですが、一体何を観照するのでしょうか。

 

真我は無形ですから、当然「肉眼で見る」という意味ではありません。

結論を言うと、真我が純粋観照するのは、まずは真我それ自身なのです。

この「顧(かえりみ)る」という働きは、アートマンに元々備わっているものです。