ウパニシャッドには「傍らに座る」と「同一化する」というふたつの意味があります。

 

学者の方々は、どちらか一つを選びたいようですが、実践する側から見ますと、ややピントがずれているように感じます。

 

「傍らに座る」とは、言うまでもなくグルの側に座るわけですが、ただ坐るだけでは、あまり意味がありません。


ウパニシャッドの伝承は、知識と体験の両方によってなされますが、知識はともかく、体験の方は沈黙の内に伝えられます。
この時ただぼんやりと傍らに座っているだけでは何も起こらないわけで、そこにはどうしても「同一化」が必要になります。


もちろん、どんなに同一化しようとしても、そこにグルがいなければ、同一化する対象がないわけですから、それも話になりません。


従って、どちらか一つを選ぶというのではなく「傍らに座る」と「同一化する」というふたつの要件が、同時に満たされなければならないわけです。これは禅の世界でも同様です。


参禅とは、老師の傍らに座り、その境地と同一化することなのです。正法眼蔵を読むと、この辺りの原理が細かく書かれています。

 

では、何と同一化するのか?というと、それはグルや老師がまとったサマディの雰囲気に他なりません。


本来、弟子への伝承は、公案の時のように一対一が原則です。弟子と対峙した時、まずグル&老師は鑑機三昧に入ります。鑑機三昧とは、禅定つまりサマディの一つです。