道元は名著「正法眼蔵 弁道話」で次のように説いています。
 

「参見知識のはじめより、さらに焼香禮拜念仏修懺看経もちゐず、

ただし打坐して身心脱落することをえよ。」
 

祗管打座つまり坐禅こそが正伝の仏法であり、読経も礼拝も全て用いない、と宣言しています。
そしてただ声をあげてお経を読んでいるのは、春の田んぼのカエルが昼夜暇なく鳴いているのと同じで「益なし」と断じています。

 

実に確信に満ちた見解です。
私の尊敬するクリシュナムルティも、「クリシュナムルティの瞑想録」(平河出版)において、
 

「瞑想は言葉を反復することでも、

まぼろしを目のあたりにすることでも、

あるいは沈黙を養うことでもない。

数珠や経文は、精神の雑音を静めはしても、

結局のところ一種の自己催眠にすぎず、

催眠薬を口にするようなものである。」

と明言しています。

(「数珠」とは、数珠を括りながらマントラを繰り返し唱えることの意)
 

マントラや観想などのデコレーションが多ければ多いほど、本来のサマディから離れてゆきます。
 

彼は同著でさらに「言葉や祈願を復唱するのは自己催眠的な行為であり、

自己閉鎖的で破壊的なものである。」と述べています。
 

昔チベット密教の奥義書「マハムドラーの詩」を読んだ時、正法眼蔵と同じことが書かれていてとても驚きました。「ミラレパ」(おおえまさのり訳)に掲載されていますが、
 

「マントラ(真言)やパーラミーター(至彼岸の菩薩行)の行、

スートラ(経典)や訓戒の示すところ、宗門や経典の教え 

そは自性の真理の実現をもたらすことなし」。
 

私も観想を多用する真言密教の出身なので実感していますが、入我我入観などでいくら仏と一体になったと思い込んでも、クリシュナムルティの言う自己催眠のような気がしてなりませんでした。