『沈黙はあらゆるものの本源である。

 

今朝あなたが聞いた音楽は

沈黙の底からあなたに届き、

あなたは沈黙していたのでそれを聞いた。

そして音楽はさらに

沈黙の中であなたを超えて去っていった。


われわれが沈黙に耳を傾けないのは、

われわれの耳が

精神のざわめきでいっぱいになっているからである。


愛があってもそこに沈黙がなければ、

それは思考の手にかかって、

羨望をその基盤とするような文化を持ち、

人間の頭と手でこねあげられた神々を崇める社会の

なぐさみものにされてしまうのである。


沈黙はあなたのまわりーあなたの中、

そしてあなたのとなりにある。』

(「クリシュナムルティの瞑想録」平河出版)


沈黙とはただ単に、口を結んで言葉を発しないということではありません。
言葉には有声と無声の2種類があるわけですから、有声の沈黙だけでは片手落ちになります。


では無声の沈黙とは何を意味するのでしょうか?


人間は言葉でものを考えます。

ですからたとえ無言を貫いても、頭の中で何かを考えていたら、それは真の沈黙ではないことになります。つまり無声の沈黙とは、ヨーガスートラの説く「心の作用の止滅」に他ならないのです。

 

思考が沈黙すれば、真我は自らの輝きを観照することができます。

それは自らの本源に回帰することを意味します。
 

愛とは、一霊四魂(プルシャ)の働きの一つです。

ですから「愛があってもそこに沈黙がなければ」というクリシュナムルティの指摘は、その通りだと思います。


瞑想の真髄は、真我に対峙する無形の瞑想にあります。