『教会や寺院が神の実質を滅ぼしてしまった今、

神は、その本来の意味を失った象徴であり

言葉であるにすぎなくなってしまったのである。


しかし神を信じない人間たちも同様、

短く空しい生の悲嘆を味わう点、何の変わりもない。

日々の生活の苦痛によって、

生は無意味でひからびたものになってしまうのである。


真実は思考の流れの終わりにあるのではないのに、

空しい心は思考の言葉でいっぱいになっている。
われわれは小賢しくなり、次々と新しい哲学や理論を作り出し、

あげくの果てにはそのいたましい失敗を目のあたりにする。
 

われわれは究極なるものに至るための方法について

様々な理論を編み出してきた。


信者たちは寺院に参詣して、

精神の想像力の所産にすぎないものにわれを忘れる。


僧侶や聖者も同様に真実を見出すことはできない。

かれらはいずれも、

かれらを僧侶、聖者として受け入れる伝統

あるいは文化の一部にすぎないからである。


鳩は飛び去った。

そして大地の上には山形の美しい雲がかかっていた。

 

真理はすぐそこにあるというのに、誰も見ようとはしない。』

「クリシュナムルティの瞑想録」


神は単なる言葉に過ぎない。。。

確かにそう言えるかも知れません。

なぜなら本来無形であるものを、言葉によって表そうとすれば、その瞬間に別のものになってしまうからです。


「道可道非常道」

道の道とすべきは常道にあらず。

(「老子道徳経」より)


しかしながら、先賢方は、その困難な課題に、本意ではないにしろ、果敢に取り組んできました。

それゆえ私達は、時を越えて、その叡智の一端を眼にすることが出来るわけです。


「マハー・ムドラーはすべての言葉や表象を超越せり 

しかしナロパよ 真剣で忠実な汝のために、この詩を与うべし」

(「マハー・ムドラー」おおえまさのり訳)


確かに、言葉を道具として真理に近づくことも否定はしません。

しかしながら、いくら懸命に沢山の言葉を並べたとしても、悟りに入ることができないのもまた事実です。


「沈黙」と「静寂」のうちに、みずからの真我が、無(神我)と合一し融合する。

そこには何一つ言葉はありませんし、もしあったとすれば合一それ自体を妨げることになります。


余分なものをすべて廃し、真我本来の働きに任せること。

作為の消えた時から、真のサマディが始まるのです。


さまざまな理論や知識は、自らの体験を検証し確認するときには役立ちますが、サマディを成就する瞬間には、むしろ邪魔になります。