『超俗とは、腰布をまとったり、一日一食に制限したり、
何か刺激的だが無意味な経文や呪文を繰り返すことではない。
世俗を放棄しても、依然として羨望や貪欲、恐怖の世界の一部であり、
権威やあるいは、知る者と知らない者との間の区別を認めているようでは、
世俗性において何ら変わりはない。
また名声であれ、理想、神など何であれ、
その成就を追い求めるのも世俗性に他ならない。
受容されてきた文化的伝統そのものが世俗的なのであり、
それゆえ人里はるか離れた山中に隠栖しても、
決してこの世俗性をまぬがれないのである。
真実は断じてその方向にはない。
人はただひとりあらねばならない。
しかしただひとりあることは孤立ではない。
ただひとりあるとは、錯雑とした貪欲と憎悪と暴力の世界、
痛苦に満ちた孤独と絶望から、自由であることである。』
「クリシュナムルティの瞑想録」
若い頃、山に篭り、滝行や断食etcストイックな修行生活をしていましたが、自虐的な苦行からは、
純粋観照者の出現や真我独存は、到底、期待できないと痛感しました。
生死を賭けたギリギリの修行をされた方ならば、私と同じ様な結論に至ったことでしょう。
隔離された深山幽谷で独り修行するよりも、都会で普通に社会生活を営みながら学びを深める方が、余程難しく、また修行になると思います。
現実社会から逃避しても自由は得られないと知るべきです。
なぜなら自分からは逃げられないのですから。