釈迦は、生涯一度も仏像の前で読経などしていません。
彼の直弟子達もそうですし、その姿勢は数百年間続きました。
ですから、原始仏典には「如来や菩薩を信仰すれば、商売繁盛とか、たくさんご利益がある」
などとは書かれていません。

原始仏教の瞑想とは、止観を基本としています。
そこでは釈迦が言うように信仰の介在する余地などありません。
かつて達磨が壁に向かって坐禅を続けたように、ただ無に向かって止観に徹するものでした。

仏像、真言、経典などに依存する在り方は、明らかに後世のものだと言えます。

釈迦が説くように、信仰に頼らず、その原点に立ち返り、自灯明・法灯明、つまり真我独存と真理との合一体験を真摯に、瞑想を通して追求するのが本来の釈迦の姿勢だと思います。