「わたしが「カルト」に?」齋藤篤・竹迫之(日本基督教団出版局) | 乱読家ぽちんの独り言

乱読家ぽちんの独り言

乱読とまち歩き、青山繁晴さんが好きなおじさんです。
コメント、フォロー、リブログはご自由に。
ただし、議論目的のコメント、意見の違いを尊重されないコメントは公開しません。



【『はじめに』より引用】

本書の題名『わたしが「カルト」に?』には、二重の意味が込められています。一つは「わたしがカルトの被害者に?」という意味で、危険なカルトであると最初からわかっていたら入信する人は誰もいない。被害と気づかないうちに被害を受けているというカルトの怖さを表しています。もう一つの意味は「わたしがカルトの加害者に?」という意味です。被害者が時を置かずして加害者になる。それも加害者意識がないままに、カルトの「ゆがんだ支配」に加担してしまう。これもカルト特有の恐ろしさです。また、カルトにおける「支配・被支配の構造」は家庭や学校や職場など日常生活のそこかしこに見られます。それがカルトの萌芽であり、自分自身もカルト化する可能性があると自覚することがカルト防止につながると本書は語ります。

【引用終わり】


かつてカルト(エホバの証人、旧統一協会)を信じていたが、キリスト教(プロテスタント)の助けもあり脱会され、現在、キリスト教(プロテスタント)の牧師として活躍されているお二人の著作。



僕は苦悩していた中学時代に、プロテスタントに入信し、高校卒業とともに脱会した。

大学に入って、知り合いの何人かが、今ではカルトと呼ばれている新興宗教に入信したことで、何度も夜を徹して信仰について議論した。

そのおかげでなのか、宗教については、俯瞰的な視点で考えるクセはついたと思う。


中学時代に、プロテスタントではなくカルト宗教に出会っていたら、苦悩の中にあった僕は、そのカルトの教えにどっぷり浸かって被害者を増やす側にいたのではと思うし、訴えられる側だったかもしれない。



カルト宗教も、カルトとは分類されていない新興宗教も、長い歴史を持つ宗教も、その宗教を「信じる」ということにおいては同一であり、信者とその家族の行動や生活に少なからず影響を与える。

スピリチュアルな真実は、誰にもわからないのだから、宗教そのものに「騙した」「騙された」は存在しない。宗教そのものに「正しい」「正しくない」は存在しない。


その上で、カルトと普通(?)の宗教の線引きは、本来は「程度問題」であり、明らかに「程度」をこえた事象として現代の法に照らしあわて違法性があるかどうか、信者とその家族の基本的人権が奪われているかどうかである。


繰り返すが、カルトと普通(?)の宗教の線引きは、本来は「程度問題」である。


日本基督教団によって出版された本書は、カルト宗教は「正しくない」「騙す」というスタンスとして書かれている。

「正しくない」「騙す」を法令や人権問題から論ずるのは「正しい」と考えるが、宗教家としての視点から「正しくない」「騙す」と書かれてあるように感じる点もあり、僕には少し違和感があった。



「わたしが「カルト」に?」齋藤篤・竹迫之(日本基督教団出版局)

【5月29日読了】

【オススメ度★★★】