著者の考えをまとめると(『はじめに』より)
⚫︎民主主義は代議制民主主義として制度化されている。人民が選挙によって代表者を選出し、かれらで組織された議会が人民の「代表機関」として、多数決できめたことを「民意」とみなす。議会は存在する民意の反映ではなく、民意をつくり出す機関である。
⚫︎民主主義とは人民の自己統治のこと。多数決は多数の支配を正当化する。しかし、自由民主主義の憲法は多数の専制を抑止するため、三権分立、法の支配と人権保障を定め、違憲立法審査権を司法に付与している。これは、多数決に制度上の限界があることを意味する。
⚫︎多数決の限界は人権。人間が生きるために不可欠な人権を、多数決で侵してはならない。ただし、その人権の範囲と保障の仕方は時代と社会により変わらざるを得ない。
⚫︎国民投票は人民自身の多数決。多数決の結果は「民意」の直接的表明とされる。しかし実際には、短絡的で情動的なキャンペーンに惑わされ、民意が誤ることもある。ヒトラーは独裁を正当化するため、国民投票を好んで多用した。
⚫︎直接民主主義の方式とされるものにイニシアティヴ(国民発案・住民発案)があるが、市民が議会に立法を促すだけで、たいていは無
視されるか、ザル法でお茶を濁される。必要なのはイニシアティヴではなく、市民立法運動です。
⚫︎結論。多数決は民主主義に固有のルールではなく、万能でもなく、人権保障の限界がある。多数決の限界をわきまえ、多数決をうまく使いこなさなければ、「民主主義」を口にしつつ、強権的権威主義に転落しかねない。
僕の考えは、、、、
「多数決が民主主義では無い」とは僕も思います。しかし、全国民の一致はありえず、その代表である議会においても、意見の一致には途方もなく時間がかかります。
著者は国会で行われている決議が「強行採決」が多いと書かれていますが、僕は多くの決定が「強行採決」だとは考えていません。
それは、僕が与党寄りの考えの持ち主だからです。
与党は「十分に審議した」と考え、野党は「十分に審議されていない」と考えているだけであり、そして、マスコミが野党側の意見を取り上げているので「強行採決」と報道されるだけと、僕は考えます。
「強行採決」と考えるか考えないかの自由を持つことも、民主主義と言えるのでしょうね。
じゃあ、どれだけ議論すれば採決に十分な時間なのかと問えば、それには答えはなく、現時点では与党がそれを決めていることになります。
また、「絶対に意見の一致がないと民主主義ではない」と考えるならば、今の野党のように建設的な議論をせず、モリカケ、桜を見る会だけを議論していれば、いつまでも決議を取れず、日本の国としての決定を阻止することが出来ます。これは、少数者の意思により大多数の意思が阻害されることになり、、、まさに民主主義の敗北ですね。
哲学的な議論になりますが「問いには正解がない」と僕は考えます。しかし、なんらかの問いの答えを出さないと、人類は前には進めない。だから、どこかで答えを決定しないといけない。その決定の手段として、多数決があると考えます。
しかし、「問いには正解がない」のだから、人は何度でもやり直すことが出来ると、考えます。過去の決定であっても、何度でも再審議は出来る。今は、皆の考えは違っていても、将来はわからない。間違えていると思えることについては、何度でも異議をとなえることが出来る。それが、人の権利《=人権》と考えます。
【令和3年9月27日読了】
【オススメ度★★★★】
さて、最後に今回もやります『直観読みブックマーカー』。
一つ前に読んだ書籍の中から哲学的問いをたてて、今読んだ書籍から直観読みで選んだ答えをもらいます。(無茶振りですが)。。。
【問い】「罰とは?」
《一つ前に読んだ「千利休 切腹と晩年の真実」中村修也より出題》
【答え(本書「多数決は民主主義のルールか?」斎藤文男より、直観読みで選んだ文章)】
「ある法が人民の集会に提出されるとき、人民に問われていることは、正確には、彼らが議案を可決するか、否決するかということではなくて、それが人民の意志、すなわち一般意志に一致しているかいなか、ということである。」(22ページ)
解釈は、ご自由に。。。
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