ども、名人です。
今日の東京の空は、朝頃は雨も降っていたのですが、それもすっかり上がって、今は陽射しが出ています。
今日も暑くなりそうですよ。
さて、今日のブログは、質問にあった版権物タイトルがどうやって決まったかというのを書いてみたいと思います。
まずは、「忍者ハットリくん」と「ドラえもん」ですが、これは皆さんの想像通りの流れで決まりました。
まず小学館の中で、ファミコンが流行っている事から、藤子不二雄先生の作品をゲーム化したいという話しが持ち上がりました。
そこで、どこに開発をお願いするのか?という話しになったそうなのですが、その時にコロコロ編集部からハドソンの名前が出てきたのです。
当時の全国キャラバンは小学館プロダクションさんと一緒にやっていたので、その推薦ですんなり通ることになったのです。
そこからは、企画書の作成や実際の開発、そして先生の意見を頂くなどの調節を行い、発売にたどり着いたという感じです。
特に、ハットリくんは、初期の段階で、社長の鶴の一声で開発し直しになったので、それが再び話題になったのかもしれませんが、86年の3月という、一番ファミコンの話題性が高い時の発売になったので、初回で100万本近い販売となり、さらに話題に拍車を掛けた状態になりました。
次のドラえもんは、さらに大変でした。
企画書を作る段階で、TVアニメを題材にするよりも映画版を題材にした方が面白くなりそうだという事は分かったのですが、同時にカートリッジのメモリーも容量の大きな物を使える事になったので、通常通りの開発期間で作る事が出来るのか?という事も問題になりました。
その結果、当時のメインプログラマーである、中本さん、野沢さん、菊田さんが、それぞれの得意ジャンルを制作し、最後にそれを合わせるという手法となりました。
という事で、1本のソフトの中で3つのワールドを楽しめるゲームになったのですが、これが思わぬ噂を引き起こしたのです。
それは、3人の開発者の仲が悪いので、一緒に作る事が出来なかったというもの…。
まぁ、実際にそんな事はなく、仲が良いので、それぞれの繋がりが上手くいっている訳ですけどね。
どんな事が噂の元になるのかは、その瞬間でないと誰も思いつかないのだという事がよく分かります。
そして、ミッキーマウスですが、実はこちらはハドソンからの提案なのですが…。
それまでにディズニーランドのパロディゲーム「デゼニランド」を出していた事もあって、直接問い合わせるのは難しいだろうという事で、とある代理店さん経由で話しを持ち込んだのです。
開店時のデゼニランドに入る為に、入場券を手に入れなければいけないので、ダフ屋から手に入れて、三月磨臼を見つけ出す。
なんてゲームシナリオを、喜んでくれている訳がないと、当時のスタッフは思い込んでいましたから(笑
この話しを持ち込んだのが、86年の夏頃という、ファミコン大ブームだった事も、良いタイミングだったと思いますが、思っていた以上にトントン拍子に進むことが出来ました。
そのおかげで、87年3月に発売する事が出来たのですが、この事もあって、国技館イベントにミッキーとミニーが登場するというサプライズが出来たのです。
確か、このイベントがミッキー&ミニーが、TDL以外で出演する初めてのステージになったと記憶しています。
多少事実とは異なるかもしれませんが、私が見聞きした情報のみなので、もし直接関わったスタッフから見ると、違うかもしれませんので、ご了承くださいね。
では、今日も一日楽しみましょう!