ども、名人です。

今日の東京は、曇り空が広がっていますが、暑くなるのでしょうかね?

さて、私こと高橋利幸は、今日で54回目の誕生日を迎えることになりました。
半世紀を超えると、もうあまり数えたくない回数になってますが、札幌の琴似二条4丁目に合った、産婦人科で産声を上げたのが、54年前の今日なのでした。

名人になったのは、1985年です。

ただ、コロコロに発表になった日と、みなさんの前に立った日のどちらが名人のデビューかを考えると、どっちなんだろうと思います。
ちなみに、コロコロに出たのは4月15日。
みなさんの前に立ったのは、5月6日です。
どちらにせよ、高橋名人になってから28年になりました。

本当に長い間、応援してくれてありがとうございます。


さて、私のリアルな部分では、生まれたときに、へその緒が3回首に巻き付いていたので、仮死状態で生まれて来ました。
そこから、20分くらいは、産声を上げることは無かったそうですが、お医者さんの蘇生の結果、今もこうしていられるのですから、ありがたいことです。

私が3歳の頃に、いわゆる初めての大冒険をしました。
この時の話しは、今でも叔父さんに会うと言われるのですが、3歳の記憶はほとんど残っていないのですから、ある部分は想像になってしまいます。

とある日の事、急に私の姿が見えなくなったのだそうです。
初めは、私の家族だけで周囲を探したのですが、見つける事が出来ませんでした。
3歳という事もあって、そんなに遠くには行っていないだろうという判断をしていたからです。

そこで、緊急に親戚に招集がかかり、みんなで探す事になったのです。
ある程度時間が経ったときに、その叔父さんが私を見つけてくれたのですが、その場所は、今のJR琴似駅だったのです。
その線路の脇にしゃがんでいて、蒸気機関車を見ていたのだそうです。

私の家から駅までは、約500mあります。
地図を見れば一直線ではありますが、途中に横道が何本もありますので、まさか機関車を見るために駅に行ったとは、考えられません。
が、もしかしたら、親父が何度か連れて行ってくれていたのかもしれませんので、その道を覚えていて、蒸気機関車を見に向かった可能性はあります。

たった500mですが、3歳だと大冒険に変わりはありません。
車もあったし、信号もあったわけですから、よくぞ無事に駅までたどり着いていたなぁと、我ながら思いますね(w

実際の交通事故は1度あります。
それは、小学3年生くらいの時の事ですが、自転車で走っていた時の事です。
道に出た時に、タクシーとぶつかってしまいました。
私も、自転車も壊れなかったのですが、タクシーのヘッドライトは割れて、バンパーも外れていました。

道に飛び出す時は、確認したのですが、駐車していた車に隠れていてタクシーを確認出来なかったのでした。

それからは、多少のトラウマがあるのか、例えばバイクで峠道を走っていても、この先から他の車やバイクが出てくるかもしれないと思って、あまりアクセルは開かない様になってしまってます。

なので、私はゲーム以外では、レースドライバーにはなれない身体になっているんです。(w

子供の頃は、とにかく遊びまくりました。
学校から帰ってくると、発寒川に行くか、三角山や円山に行くかのどちらかが大半でしたし、小学校4年生の冬の時期からは、親父の灯油配達の手伝いもする事になりました。
最初は1つ18Kgのポリタンクを持つのが大変でしたが、親父が鍛えろという事でハンドグリップを買って来てくれたおかげもあって、どんどんと握力が付いていき、6年生の時には、握力は45Kgになっていました。

また、私の自転車を従兄弟のお兄ちゃんが乗っていたので、私はその後ろを走って付いていきました。
こちらもそのおかげで、6年生の時の50mは7秒で走る事が出来ました。

やはり子供の頃には、身体を使わなければいけないと実感します。

子供の頃の思い出は、また機会があったら紹介します。
まぁ、それ以前に、私の伝記的なまんがの「高橋名人物語」を、みなさんは読んでいるでしょうから、必要無いかもしれませんけどね。


では、今日も一日楽しみましょう!