という事で、その6では、鳥取から福井に移動したところで終わりましたので、今回はその続きです。

福井の大会は、8月9日です。
実は、私は、割と晴れ男なのですよ。
もの凄い雨男には負けてしまいますが、大事なイベントがある場合、そのほとんどは晴れだったりします。

ところが…。

この8月9日の福井か、翌10日の金沢での午後の部で、キャラバン始まって初めての雷雨となりました。


あっ、そうそう、この部分を書く前にお断りを入れておきます。
というのは、福井か金沢かが分からない上に、実は85年の事だったのかも、ハッキリとは思い出せないのです。
86年の大会では、両方の県にも行ってませんし、確か工藤裕司さんも居たはずなので、85年じゃないかと推察しています。
なので、ここら辺ご了承ください。


さて、ということで…85年だったという事で、話しを進めて行きます。

午前の大会が終わったところで、お昼休みに入ったのですが、それと同時に雲行きが怪しくなっていきました。
雲の移動は早く、みるみるうちに、空は雲で覆われて、大粒の雨が落ちて来たのです。
と同時に落雷も…

これには驚きました。
多少の雨であれば、午後の部も強行したかもしれませんが、雷が鳴るとなれば、はなしは変わります。
店長さんとも協議の上、午後の大会は中止としました。
ただ、集まっている子供達には可愛そうだったので、店内の階段の踊り場だったと思いますが、そこで私のサイン会を開催して、許して貰いました。

南キャラバンで、雨天中止になったのは、私の行った会場では、この大会だけですね。

翌日の11日は富山の大和百貨店富山店での開催でした。
金沢大会終了後に、富山へ移動した後、ホテルの近所にあったお寿司屋さんに入りました。
この店の料理は、ほとんど覚えていませんが、お酒で大変な目に遭いました。(w

そのお酒は、日本酒の「雷鳥」という、いわゆる原酒だったのです。
主人曰く、「この酒はきついから、一升飲めるやつでも2合しか出さない」と言うのです。
そこまで言われたらこちらも後には引けません。
「おれは2升飲んでいる」という様な事を言って、男子スタッフと工藤裕司さんの5人で2升近く開けたのです。

その店からのホテルへの帰路は、全員が千鳥足でした…。


また、これだけなら良かったのですが、翌日に残っていないわけがありません。
なので、この大和百貨店でのキャラバンは、出来るだけ子供に近づかないようにイベントを実施していました。

ホント、この日に参加したみなさん、どうもすみませんでした!

翌日の12日は、高岡市にあるおもちゃのバンビさんでの大会でした。
この時のお昼休みに、東京から電話がありまして。

東京「高橋は、明日(13日)が終わったらどうするんだ?}
私 「明日終わったら、そのまま東京に帰ります」
東京「そうか、それなら、14日は東京にいるな。
   なら、朝の6時に東京タワーの下に来てくれ」
私 「え!なんですか?」
東京「おはようスタジオってのがあって、それに出て貰いたいんだ」
私 「南はつかれているから、毛利君じゃダメなんですか?」
東京「バイトにやらせるのか?」
私 「はい…。行きます」

という感じのやりとりがありまして、この瞬間に「おはようスタジオ」の出演が決まったのでした。
まぁ、今振り返ると、この時に出ていて良かったなと思います。
この時に、本当に拒否していたら、それから後のチャンスが、全て無かったかもしれないわけですからね。


さて、12日のおもちゃのバンビでの大会が終わって、みんなで13日の開催場所である新潟に移動したわけです。
富山と新潟は割と近いので、19時にはホテルに入ったと思いました。
その後、荷物を置いてすぐにフロントに集合して、晩ご飯を食べ、ホテルに戻ったのが21時頃だったでしょうか?
世間では、日本を震撼させる大事件が起きていたのです。

1985年8月12日

そう、JAL123便の墜落事故です。

この123便は、当時のハドソン社員であれば、誰かが必ず乗っているという位頻繁に使用している便でした。
それにお盆休みで、大阪方面に帰る方も多いはず。
という事で、ニュース番組を付けっぱなしにして、被害者名簿をチェックしたりしていたのです。

その頃、東京では、その当時の東京支店長であった、田村さんという方が、社長を始めとしたみんなに挨拶をして、東京支社を出るところだったのです。
田村さんは、123便に予約を入れていて、社長にも「123便で帰ります」と告げて社長室を後にしたのです。

墜落を知った工藤裕司さんの驚きは、どんなだったでしょう。
田村さんの自宅に電話を入れたところ、何も連絡が無いと言われ、いろんなところに手を回して情報収集をしていたのです。

さて、社長室を出た田村さんが、宣伝の大里さんに挨拶したところ
「明日帰ればいいじゃん、飲みに行こう」と誘われ、そのまま飲みに出かけたらしいです。

そういう事があって、田村さんは無事に実家に帰る事が出来たのです。
大里さんが、命を救った様なもので、ハッピーエンドになるかと思いきや、それを知った工藤さんが、烈火の如く怒ったという話しがありまして…。

これは、しばらくの間、工藤裕司さんが、ずっと言い続けていたので、本当に心配していたんだろうなと思わせるエピソードです。

とはいえ、田村さんの代わりに乗った方もいらっしゃるわけですから、謹んでご冥福をお祈りしたいと思います。


さて、そんな事で、今日の大会が終わったら、ちょっと休めると思ったのが、新潟のダイエー新潟大会でした。
翌日14日からは3日間の連休となりましたが、お盆休みの渋滞もあるだろうとの予測の上での連休です。
16日には、名古屋に入っていなければいけませんし、14日はおはようスタジオの後に、南北合同の反省会もあったので、実質の休みは15日だけだったのですが、それでもうれしい休日でした。

この反省会で出た事は、阪急梅田の大会は、今まで以上に人が来るであろうから、今から準備したとして、最大何人での大会を実施出来るか?というものでした。

それまでは、ファミコン10台で予選・決勝をしていたので、それを20台にしたところで、簡単に倍にする事が出来るのか?というのが、一番の課題だったのです。
結果、子供がプレイをする予選は、倍の人数がさばけたとしても、その後の点数のチェックなどを考えれば、一組あたりの時間が、今の4分から6分近くになるだろうという予測が大半をしめました。
もし一組6分かかるとると、25組終了するのに150分(2時間半)も掛かってしまいます。
なので、増やしても200人増しの700人が安全ではないかという事に落ち着きました。

この大会で、新潟や富山などが南キャラバン担当になった理由は、北キャラバンが太平洋側から山を越えて日本海側に移動するよりも、南キャラバンがそのまま北上した方が、早いだろうという意見が多かったからです。
実際に廻ってみると、それで正解だったなぁという思いが、この時にはありました。
南を担当したスタッフには大変だったと思いますが…。


さて、次回は、いよいよ終盤です。
同時に、後で聞いた、北キャラバンの札幌大会で起きた出来事も紹介してみたいと思います。