ロードランナーの続きです。

以前書いたのが、2週間ほど経過しているので、頭の中がクリア状態になっていますよ。
という事で、完成した後の話を書いてみたいと思います。


さて、ロードランナーが完成に近づいたのが、1984年の春先の事でした。
2月か3月だったと思います。
ロードランナーを販売するにあたっては、その当時に任天堂さんから紹介を受けた「初心会」というおもちゃ問屋さんを廻らなければいけないのでした。
そこで、当時の営業の責任者でもある中野専務と私が一緒に全国の問屋さんを廻って、説明をしていく事になりました。

営業の中野さんだけで廻ってもいいのですが、同時にゲーム画面を見て貰った方がいいだろうという判断だったからです。
私もスーツを着て、基本は日帰りで2週間ほどをかけて、毎日の様に全国を飛び回りました。

そこで必ず聞かれたのが

「ファミコンってのは、任天堂さんのゲーム機なのに、勝手にゲームを出していいのか?」
という事でした。

この1984年は、まだサードパーティーという認識が無かった時代です。
パソコンの世界では、ソフトハウスという言葉もあり、各メーカーにソフトハウスからゲームなどのアプリケーションを出していたので、そういう感じは全くありませんでしたが、おもちゃ業界の中では、そのメーカーが出している機械に、他社がアプリケーションを出すという事が無かったのです。

そこで、このゲーム(ロードランナーと同時に NUTS & MILK も説明してました)は、任天堂さんの許諾を得ていること。
そして、任天堂さんの工場で生産される事などを説明する事から始まりました。

その後は、こちらで考えている数量や、契約していただいた時の条件などを専務が話してから、私の方で、実際にプレイをしてみて、質問に答えるという事を行ったのです。

私の受けた感じとしては、非常に好感度を持っていただいたという感じです。
特に、それぞれのゲームには50ステージあり、さらには、子供が自分でステージを作る事が出来るエディット機能が入っているという部分に、非常に反応があったと思っています。


これで、注文が集中して、50万本くらいを販売に出せたら最高だったのですが
この当時のハドソンの予算では、30万本しか生産出来ませんでした。
それも、2タイトルを合わせて30万本です。

発売後の土日で、商品が店頭から消えたわけですから、お金さえあれば倍は作りたかったです。
が、逆に、品不足になったからこそ、「欲しい」という欲望が増したおかげで成功したのかもしれません。


この生産本数に関しては、こんな話しもあります。

赤坂プリンスホテルで、どこかのおもちゃ流通の会合があるという話しを聞いたので、TVとファミコンを抱えて、その場所に行って説明させてもらう事になりました。
この時向かったのは、中野専務に中本さん、宣伝の大里さんに私の4人でした。
ゲームの説明とデモプレイを中本さんが行い、その後にいろんな質問を受けることになったのですが、その席で
「ハドソンさん、こんなに売れる要素が詰まったゲームを30万本しか作らないなんて、売る気があるのですか?」
という様な事を言われたのです。

あまり本当の事は言えませんから(笑)、中野専務が苦しそうに説明をしていました…。


と、とにかく、いろんな場所に顔を出して説明をして廻りました。
これを発売されるまでの間行っていたのです。

TVCMの作成ももちろんの事です。
この時のCMを作ってくれたのは、円谷プロでウルトラマンAやタロウにレオなどのドラマ部分の監督をされていた「深沢清澄」さんです。

深沢監督がいたから、後のシュウォッチの時に、ウルトラマンに登場してもらう事が出来たんだと思います。(w

TVCMなどの宣伝予算は、基本的に両方同時に宣伝を行うという事で、ロードランナーと NUTS & MILK を分けていませんでしたが、割合としては、ロードランナーを重視していました。
だいたい、7:3くらいだったのではないでしょうか?

他に雑誌での広告なども作りましたが、今で言う雑誌記事はありませんでした。
というのは、まだファミコンという特集が組まれていなかったからなんです。
コロコロコミックも、ファミコンではなく、「ゲームセンターあらし」が連載されていた時期でもあって、アーケードゲームがメインとなって紹介されていた時代なのです。

実際にコロコロさんとお付き合いさせていただく事になったのは、1984年の夏が過ぎた頃からです。

ロードランナーが大成功になった後で、大里さんがジャンプ、ボンボン、コロコロという男子が読む雑誌を廻って、ファミコンの話しをした時に、最初に「一緒に盛り上げていきましょう」と言ってくれたのが、コロコロさんだった(という説明を私は受けました)のです。
そこで、コロコロさんと共に、動き始めたのです。
私に対しての至上命令は、「コロコロさん、第一優先」という事でした。

ゲームに関する情報は、まずコロコロさんで展開した後、他誌で行うという事です。
それゆえ、ファミコンロッキーなどの漫画での展開も出来ていったのだと思いますし、翌年のキャラバンもこのおかげで成功したのだと思います。

私も、一週間に5日ほどは、コロコロ編集部に顔を出していましたよ。(w



と、長くなってしまいましたが、まだまだ書き尽くす事は出来ません。
でも、この「ロードランナー」と「NUTS & MILK」 の成功があったからこそ、その後に続く流れが出来たと思っています。
とにかく、全社一丸となって、動いた事は間違いありません。
そんな時に、その一員として働けていたという事は、忘れる事が出来ない思い出になっています。


次は、なんの話しをしましょうかね?
やっぱり、バンゲリングベイかなぁ…。