都合+都合 | ひとくち伝言

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百観音明治寺の寺報、ひとくち伝言をお届けいたします

 「三千世界の鴉を殺し、主と朝寝がしてみたい」なんて都々逸がございます。高杉晋作が詠んだとも、遊女の歌とも言われますが、はてさて、本当にカラスが居なくなれば朝寝が出来るのか。歌の解釈にも依りますが、最近の私は大いに疑問を感じております。
というのも、何故か今年は寺の周りのカラスが少ない。コロナ禍で飲食店が閉まり、餌が少なかったからでしょうか。毎日カーカーと騒いだり、庭の花を散らすカラスがいなければさぞ平穏かと思いきや、天敵がいなくなったことでオナガとムクドリがやたら増えた。今まではそれほど気にならなかったのに、こうも増えるとオナガはカラスに負けず劣らずギーギーと賑やかです。そしてムクドリは、片っ端から花を食い散らかす。迷惑な存在がいなくなったと思ったのに、まるでその空いたポジションに入れ替わるように、別の存在が迷惑になってしまいました。なかなか都合良くはいきません。
鳥たちも生きるのに必死ですから、カラスにはカラスの、オナガにはオナガの都合があるのでしょう。こちらにもこちらの都合があるわけで、都合のぶつかり合いは世の常です。しかしながら都合という言葉は本来、「すべて(都)を合わせる」という意味なのだとか。全体の繋がりを考えずに、単純に「カラスさえいなければ!」なんて思っていても、都合良く行かないのは当然かも知れません。
仏教の根本は「苦の原因を正しく見る」ということ。こんな当たり前のことがこんなにも重要なのは、我々がしょっちゅう、原因を間違えるからなのでしょうね。「あいつが諸悪の根源だ!」とか、「この問題さえ無ければ全てがうまくいくのに!」とか。もちろん、要因ではあるのかも知れない。けれど、全体を見ず一つの要因だけに全責任を押し付けて単純化してしまうと、原因はさらに分かり難くなってしまいます。丁寧に物事を見渡せば本当の解決法が見つかることもありましょうし、うまく都合は付かずとも折り合いは付けられるかも知れません。カラスがいなくとも平穏ではないと知ると、諦めも付こうというものです。

もしかしたら冒頭の都々逸は、因果関係を見誤って邪魔を排除しようとしてしまう人間を、皮肉っているのかも知れません。三千世界とは仏教の世界観で、地球を含む全宇宙のこと。間違った原因を排除しても切りがないという暗喩が含まれているとすれば、より一層味わい深いものがあります。