昔、友人が「楽するためなら、どんな苦労も厭わない!」と宣言をしていて、なんだか矛盾を感じてしまいました。不真面目なのか、勤勉なのか。まるで「健康のためなら死んでもいい」という名言?のような不思議さです。でも考えてみれば、楽のために頑張るって、意外と普通のことかも知れません。効率を良くするために工夫をしたり、休日にゆっくりするために仕事を頑張って終わらせたり。いずれ安楽になるために必要なら、多少の苦労も我慢できます。それに、苦難を乗り越えた時の感慨が大きいのも事実。そういう経験は自信にも繋がりますしね。
ただし「苦しんだ分、幸せになれる」とか、「苦しいから正しい」と考えてしまうと、自分をどんどん苦しい方向へと導いてしまいます。薬は
苦くないと効く気がしないとか、価格が高くないと価値が無いとか、辛いからこそ真実の愛だとか。代償や犠牲が最大限に報われて欲しいという願望で目が曇り、いつの間にか、単なる一つの尺度に絶対的な正しさを求めてしまうわけですね。そういう見方を離れて、自分自身でちゃんと正しいことを見抜ける目を持ちなさい、と仰ったのがお釈迦様。王子様として楽を極め、厳しい苦行に耽るという両極端を経験した末に、お釈迦様は悟りました。楽とか苦とかにこだわるべきではない、と。だって、目的地への道筋は、しんどい時もあればそうでもない時だってあるわけです。山登りですら上り坂だけとは限らない。なのに、目の前の道が上りか
下りかだけを基準にして道を選べば、迷子確定です。当然、上りでも下りでもない「真ん中の道」や「ちょうど良い道」が正しいわけでもありません。ちょうど良いペースというのはありますけれども。
この考え方を発展させて、有りだとか無しだとか、無常だとか永遠だとか、同じだとか違うとか、汚いとか綺麗だとか、多いとか少ないとか、聖だとか俗だとか、とにかくそういう対立する概念から離れて物事を見ることが、仏教の基本姿勢となりました。一方的な視点や固定観念に縛られず、物事を正しく見ようとすること。そして、そうあろうとする自己研鑽の道を、仏教では「中道」と言います。
とまあ、昨今いろいろ考えるところがあって、私なりに中道を語ってみましたが、これも一つの見方くらいに考えていただければ幸いです。なにせ、一方的な視点を離れるのが「中道」ですから。