ブラジャーを投げ捨てたら自分が何者かわかった話。 | 煮ても焼いても食えない。

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約10年越しに女装を始めたみちるさんのブログです。
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みなさんこんばんわ。みちるです。

今夜はちょっと自分の内面について、考察しながら書きたいと思います。

 

わたしは女装をすること自体大好きだし、女装した自分の姿も好きです。

当初は変身したことの喜びだと思っていましたが、今は変身というより、自分そのものであるという思いになりつつあるというか。

いわゆるB面(Before=普段の自分)とA面(After=変身後の自分)の境界線は薄まり、どちらも自分だし、私自身の自意識を中心線として表裏一体、背中合わせで存在しているものなので切り離しようがないと自覚しています。

 

女装とは女性を装うことですが、これについて最近、深い自問自答がありました。

 

すなわち、自分は本当に女性を装いたいのか?ということです。

 

 

 

 

 

 

 

女性を装う、というのは自分の男性性をどのようにうまく消そうか?というベクトルのお話です。

そこには少なからず、男性としての自己をいかに殺すのか?というメタファーがあり、自分のB面をA面で塗りつぶす行為なわけです。

 

かねてよりこのブログでは、わたしは自分の女装を幼少期に培えなかった自己肯定感の穴埋めであり、具現化された自己愛だと表現して来ました。

 

その自己認識は正しいのだと思います。

美しい姿、可愛い姿になった自分を愛でることで、自己愛が満たされるのは確かなこと。

 

一方で、女装=女性を装えば装うほど、自分のB面をA面で塗りつぶしているという、自分の半面を否定しているという矛盾があることにも、ある時、気が付きました。

 

きっかけはブラジャーです。

 

 

 

 

 

 

 

女装をすることが好きで、女装した自分の姿も好き。

それでも、ブラジャーをつけ外しするときにいつも感じる小さな違和感。。。

 

メイクをしたり、女性もののドレスやワンピースなどを着る行為自体には何ら違和感はないのです。でも、ブラジャーをつけ外しするときだけに感じる相容れなさがある。

 

苦手なものを丸のみするかのように。目を閉じ、鼻もつまんでえいやっとやって済ませてしまいたい。

わたしにとって、ブラジャーのつけ外しは初めて女装をしたその日から今に至るまで、そういう感じなのです。

 

女装を始めるにあたって、女装写真館で初めて女装写真を撮っていただいた折も、思い返すと当日その場に至るまで「ブラジャーはつけない」と決め込んでいました。

しかし、女性らしいきれいな写真が撮れるという写真家さんのアドバイスに従ってブラジャーをつけて撮影し、結果は満足のいく写真を撮っていただくことが出来ました。

 

それ以来、満足のいく写真を撮るための要件として、自動的にブラジャーもつける流れが出来ました。

 

ただし、前述の通り。

ブラジャーをつけ外しするときだけは、やはり何とも言えない淡い違和感があり続けました。

 

それで、ずっと気になっていたことを先日実行しました。

ノーブラ女装です。

 

 

その折の感想は、大きなセンセーションはなかったのですが。

この実験を契機に思い出したことがありました。

 

 

振り返るとわたしが女装をし始める数年前に放映されていた、このCMにとても面くらったのを思い出したのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

女性というにも美しい、トップモデルのような顔、体。

自信満々で歩いてきてヴェールを脱ぎ捨てると、ノーブラのふくらみのない胸がはだけられ。

なんと男性なのです。

 

男性が美しく可愛くなろうと思えば、女性のやり方をまねるのは自明の理ですね。
でも、女性こそが唯一美しくなる権利を持っているというわけではない。
 
男だって美しくなれる可能性はあるし、もしかしたら女性には表現できないような美の領域を持っているのかもしれないじゃないですか。
 
これらの考えを並べて行ったときに、わたしは気が付きました。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
わたしの女装は女性のやり方を借りるとはいえ女性を装うためのものではなく、自分自身の中に眠っている美しさの可能性を磨いてみたい!というのが本質的な目的なんじゃなかろうか。
 
もちろん、自分の性別をどうこう言うつもりはなく。
 
それでこそ出発点であるB面の自分を否定しないまま、A面をつきつめていけるんじゃなかろうかと。
 
わたしは女装がすき。
でも、わたしは女性になりたいわけではない。
わたしの女装は自己愛の具現化である。
わたしの自己愛は自己の美しさの可能性を見出すことで満たされる。
わたしの女装は自己愛の具現化であって、性別がどうのこうの、ということに対するこだわりではない。
ただ自分をより好きになるために美しくありたい。
 
 
ブラジャーを投げ捨てた結果、わたしはこれらの考えに到達したのでした。
 
 
そしてもう一つの考察があります。
 
新宿二丁目で女装の方、ゲイの方、トランスジェンダーの方などと関わる中で感じていた、自分の立ち位置や現在位置はどこにあるのだろうか?という問いです。
 
 
 
 
 
 
端的に言えば、LGBTQという、これですべてではないにしろ分類化された枠組みがあるとして、女装者はどこなのだろう?自分はどこに分類されるのだろう?という淡い問いです。
女装者って内容次第で幅の広いものなので、これに入っていたり、入っていないケースも多々あるかと思います。
 
しかるに答えがないかもしれない問いだったわけですが。
 
上述の考察を並べてみると、わたしはおそらくQに近いのじゃなかろうかと。
 
Q=クエスチョニング。自分の性別がわからない、あるいは決めたくないのだという人々を指す分類です。
社会生活を営んでいる私自身は当然男性として生きていますが、分類するのであればQの要素を多分に持つMなのだろうということです。
 
 
 
 
 
 
 
「性別なんてどっちでもいい」
 
この言葉は、これまで生きてきた自分の人生に照らしても実にしっくりくる気がします。
 
「男のくせに」とか「もっと男らしくしろ」とか言われて押し込められていた、小さなころの自分。
女装をするけど女になりたいわけではない自分。
 
それらすべてを包含する、実にしっくりくる言葉だと思います。
 
 
 
 
 
写真の見栄え、写りが良いのでこれからも狙い目次第ではブラジャーもつけるかと思いますが。
わたしの本質的な部分を探ってみた時に行き至った自分の姿は、今のわたしの目にはこのように映るのでした。