令和2年は、私とって新たな人生へ踏み出す年です。
その道が容易ではないことはわかっていますが、新年早々きつかったです。
山田砦
宮坂武男(2015)『信濃をめぐる境目の山城と館 美濃・飛騨・三河・遠江編』、戎光祥出版(以下同書を参考に堀・郭名を準拠し記述)によると、『瑞浪市史』からの引用で、『小里家譜』にある天正12年(1584)の小牧長久手合戦時に豊臣方森氏が拠った光明山田砦がこれであろう(落城した光明山田の砦がこの山とは確定できない)という紹介と、宮坂先生の意見として、横堀使用から新しい造りであること、山の南半が手つかずで急造で未完の印象を挙げ、織田氏により、小里城山城を強化した頃(元亀末から天正初期)、一緒に作られたが未完に終わった砦の一つではないかとする説を提起している。
南東に張られた横堀㋑
折れを伴う。
折れ部が出入口か。
後世の通行による磨り減りか、出入口のようにも見えた
擦り減りか出入口か
南下方から㋑折れ部
㋑折れの南、もうひとカーブ
南西下方㋑
郭②から㋑折れ部
②は㋑に塁線を備える。
郭内
横堀と急壁に守られた平場を確保してる。
最高所の郭①を並べた郭②が西を囲う、南西に一段低く郭③を置く。
一段高く①
①
北北西には舌状段を従える
南西は②が囲い、その下方緩斜面に③(整地途中か)
私達、この竹林(藪)をラッセル登山してきた。
③の下方、西尾根に郭④を置くが、この方面も尾根の付け根に堀㋐を張る。
②南西隅から③
土塁造作は接続の工夫であろうか。
③は緩斜面を整地途中か
この下方、尾根の付け根に堀㋐
㋐
うぃ
㋐は前面に土塁を盛る。
塹壕運用にはちょうど良い幅に思えるが、塁線を胸壁とするには、堀が深いように思えた
塁線
塁線下方
一段置く。
令和2年、私は進む
それを可能にしたのは、月芳さんのラッセル・励まし・心意気である
④からのとりつき
④
旭王寺の背後に至る
旭王寺
ただし、こちらからは竹林を突破しなければならず、困難を伴う。
GPSを装備していれば、南東の墓地から山越でアプローチした方がやや易いであろう。
参考文献
宮坂武男(2015)『信濃をめぐる境目の山城と館 美濃・飛騨・三河・遠江編』、戎光祥出版、p.162