菅名周辺の城をもう一つ
牧城
福昌寺背後、比高約80m(村松町史・以下町史、測数値は同書に拠る)の要害と呼ばれる山上に築かれている。
牧城縄張図(町史より引用)
主郭は27×16mと狭いが、鋭い壁と堀切で厳しく備えた山城である。
上杉番城や、国衆の本城と比べると小さな城で、それらよりも小さい在地領主の城とされている。
しかし、南の堀切は箱掘で、壁の厳しさとも合わせ、そうともいえないのではないだろうか。
菅名と加茂を繋ぐ位置にあり、天正期上位権力の意思によって構築(改修)された繋ぎの城ではないだろうか。
南尾根から牧城
側面の峻嶺度も厳しいが、南尾根は箱掘が設けられ、主郭南端には土塁を盛り、備えを固める。
土塁により、より壁高く、郭内の見通しはできない。
やや斜から
↑底は箱状(左が主郭、右が南尾根)
主郭側は鋭い。
↓左が南尾根、右が主郭側
箱掘であることから、私は、普請は天正中期以降、主体も低い階層ではないと考える。
なぜ、箱なのか。
間合いをとりたい、底を通路としたい(敵を歩かせたい)といった意図が考えられよう。
主郭端の土塁と合わせた、射撃を意図した防御施設と考えられようか。
堀底から主郭南端を見上げる
急壁もさることながら、土塁により高さが増している。
寄せ付けない意思を強固に示す。
南端土塁上から箱掘
主郭内から南端土塁
土塁は、塁というよりも、櫓台あるいは高所陣地であろう。
南端高所から主郭
西尾根
主郭下方に二段造作があり。
西尾根上段郭
壁下に下段郭
主郭北東部・北尾根
主郭北東部
現地では出入口造作に伴う土塁かと考えたが、塁線となる構造か
出入口造作か?と思ったところ
んんー?
北尾根堀切
城の小ささに不釣り合いに厳しい壁と堀のコンビネーション
急壁すぎてわからないか。
うりぃ
堀底
登り口
福昌寺
右から山道を登る
切通しの手前で右(北東)に進むと2分ほどで城南の箱掘
左に登ると3分ほどで薬師堂跡
城南箱掘への尾根
薬師堂の跡
聖地は城に取り込んでいない。
薬師堂跡へは、福昌寺の御住職にご案内いただきました
ありがとうございました。
参考文献
村松町史