牧之島城
言わずと知れた武田の城として著名な城である
私は著名な城は書かなくていいと思っているのだが、今の 取り組みに関連し、この城もひねくれて観ている。
したがって著名な城だが書くことにした。
地図https://yahoo.jp/M4b1Lyで一目瞭然、犀川が湾曲して半島とする縊りに位置する(クリップしたくなる)。
宮坂武男(2013)『信濃の山城と館2』(以下宮坂2)によると 、普光寺のあたりに前身と考えられる香坂氏の牧城があったが、永禄9年(1566)8月、屋敷替えが行われており、このころに牧之島城が築城され、馬場美濃守が城代として入ったとしている。
天正3年(1575)、設楽ヶ原合戦で馬場美濃守が討ち死にすると、子信春が城将となり、昨年記事にした上尾城の平林正恒が在城した。同10年、武田滅亡、織田退去の後、景勝が掌握、上杉氏の拠点城郭となり芋川親正が城将となる。慶長8年(1603)、松平忠輝が松代に入ると城代が置かれ、元和2年(1616)、改易とともに廃城になった。
この城は、永禄9年から天正10年までは武田、のち慶長3年まで上杉、同8年から元和2年までは松平忠輝が使用しているわけで、今見るままに武田の城とすることに、私はひねくれる。
丸馬出北設置説明板より引用
私のひねくれ⓵
主郭の桝形が二ヶ所に在ることが不可解。武田期に二つの枡形があったとは思えない。
玄蕃稲荷社参道脇設置説明板より引用
消滅しているが、古図によると丸馬出の北東にもう一つ丸馬出が描かれている。
主郭から東枡形ー丸馬出、主郭北枡形ー二の丸を経てその東出入口から消滅した丸馬出という経路があったと考える。ある時期に、どちらかの経路が新設されたのではないだろうか。
私は、武田の丸馬出は、主郭に付随するというよりも、その時期の外郭出入口前に設けられたと考えている。
そのように考えると、残っている丸馬出は、主郭出入口に付随する構造で、外郭付随ではない。つまり、武田期の構造ではないと考える。
消滅した丸馬出は、主郭の外の二の丸に付随する。二の丸は主郭の外郭なので、武田期の外郭が二の丸だと考えれば、武田期の構造であろう。
今見る丸馬出が守る主郭東枡形は、分厚い土塁を刳り貫いて構築されている。それは、もともと在った主郭を東を守る分厚い土塁を破壊して設けた枡形であることを示していると考える。
丸馬出も、その出入口を構築する際に新設された構造であろう。
牧之島城の今見る主郭東枡形・丸馬出・三日月堀(×で示した)は、武田期の構造ではなく、武田の後、上杉あるいは徳川期に構築された構造であろう。
数野雅彦(2002)「武田系城郭の枡形虎口について」では、主郭北側枡形虎口は武田系城郭の典型、東側の枡形虎口は構築主体を特定できないとしている。
オリジナルと思ったが、そういえば馬念さんが前になんか書いてたなと思いだし、見てみたら、すでに2015年に「牧之島城ーその弐ー」https://blogs.yahoo.co.jp/siro04132001/26919073.html で、多田暢久、石川浩治の論考を引用ししつつ、そう考察されてました。なので、これは私のオリジナルではないことになります。
しかし、通説では、武田の典型的な城として現在でも書いておられる方が多いので、ひねくれ派にはなるのでしょう。
私のひねくれ➁
城の西は犀川が湾曲する半島先端方向で、この城と犀川とで造り出す安全地帯のはずである。そちらに向かって、巨大な箱掘りが二本設けられている。
方面、ということで考えれば、犀川上流・安曇野方面(現国道19号が渡河する)からの襲撃に備えた構造か。
とすれば、天正10年以降、安曇野小笠原氏に対した越後上杉景勝期の構築が考えられよう。
蟻ヶ城の記事で、天正10年景勝が牧野島城を掌握する過程での北条の夜崩れなど関連事項を書いていたので、貼っておきます。
以上、内容重くなるので、文字部分を前振りしました。本編(3月2日(土)朝公開予定)で写真どどっと行きます。お楽しみに。
参考文献・サイト
宮坂武男(2013)『信濃の山城と館2』、戎光祥出版、pp.450-452
数野雅彦(2002)「武田系城郭の枡形虎口について」、『織豊城郭』第9号、織豊期城郭研究会、p.73
馬念(2015)「牧之島城」その壱ー弐、『古城の風景』
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