福平城(長野市戸隠栃原福平) | えいきの修学旅行(令和編)

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 福平城(西から)
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戸隠栃原の主城とされる福平城
 
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 国土地理院空中写真に宮坂武男(2013)『信濃の山城と館2』、戎光祥出版を参考に、郭・堀名を同書に準拠し、ブログ説明用に書き込んだ。
 
 主郭1の前面(南)は土塁で区切り郭2を、段々に3を配している。
 主郭の北は堀ア、イと二重に備えている。 驚きの箱掘で、土塁も付随し厳重に防備を施している。さらに北に堀ウ、エが設けられており、城域は広い。拡張されたものであろうか。
 西は堀オが守る。
 堀ウ底には段差が設けられている。
 私は福平城の箱掘の構築、堀底段差普請は、天正期景勝勢力圏下の普請と考える。
 
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福平城主要部(南から)
今木八幡社背後が郭1。
 
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郭2
 平成27年設置長野市教育委員会設置の説明板によると、享禄年間(1528~32)に構築されたとし、文禄年間までこの地を治めていた溝口伯耆守の居城、また今井四郎兼平が築いたとの伝説も記している。
 
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郭2から郭3
監視下置く。
 
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今木八幡社背後の土塁で郭1を区切る
小さい車なら、ここまで入ることができる。https://yahoo.jp/OpDVam
 
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お堂背後、土塁
 
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土塁の南西端から主郭、堀ア底に至る導線がある
 
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南を土塁と郭2、北を堀に守られた郭1
 
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郭1北を守る堀ア
驚きの箱堀で、堀イとの間に土塁を置く。
土塁は、幅広の箇所もあり、そこは塁ではなく、防御陣地、あるいは櫓台としての構造であろう。
 
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一旦土塁がきれて北東部
 
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驚きの箱掘
まさか戸隠で箱掘に出会うとは思わなかった。
宮坂先生は勢溜りにもなると記している。
郭1側壁は10mにも及び、堅固に主要部を守る。
 
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土塁外はさらに堀イが二重に守る
甚だ堅固である。
 
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堀アーイ間の幅広のところ
藤塚というらしい。
 
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藤塚から堀ア越しに郭1
 
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堀イ
 
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堀イも城内側壁は堅固である
 

 
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堀イから郭4への接続部
 
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虎口のようにもみえる窪がある
 
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郭4
 
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西と北は堀ウが守る
堀ウは通路としても使用されたはずで、郭4は堀ウ通行者を監視する役割もあったことであろう。
 
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堀ウ東西
 
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東西の堀底には段差が設けられている
 
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西段差
郭4西辺と合わせた設置。
 
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東段差
 
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西段差上から東西の段差間
枡形運用?とまではいかなくとも、通行の一旦停止線にはなろう。
 
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西段差を下方から
 
私は、福平城の箱掘の構築、堀底段差普請は、天正期景勝勢力圏下の普請と考える。
 
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掘ウ東から南北への折れ部
 
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ウ南北線
 
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その西は堀オ(冒頭の写真の堀)が守る
 
  東西堀ウ線から約130m北に二本普請の堀エが東西に設けられている。
 
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堀エ西端
 
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二本の堀エ
 

 
   まとめ
 
 戸隠栃原地区は、麻績・安曇野を勢力下に置きたい上杉景勝にとって、拠点城郭牧之野島城と越後を最短で繋ぐ戦略上重要なエリアである。
 私は福平城の箱掘と段差普請に注目し、同城は景勝圏前線と本拠越後との中継、ならびに戸隠領有化拠点ために景勝領有下の天正期にも手を加えて使われた城であろうと考える。
 
 参考文献 宮坂武男(2013)『信濃の山城と館2』、戎光祥出版、pp.385-7