小松原城(長野市篠ノ井小松原) | えいきの修学旅行(令和編)

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犀川が善光寺平へ出るところ
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川の渓谷を挟み小松原城、吉窪城が構えられている
 平成30年の雪消えとともに私はここから犀川沿いに分け入り、私にとって未知の信濃の城達を2か月ほどかけて踏み歩いた。
 
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天照寺裏手から登る林道有
天照寺はここhttps://yahoo.jp/MCzU3u
 
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山上の果樹園・池跡の南西のピークが小松原城
果樹園・池の北東のピークを徘徊した時間を含み、天照寺裏から21分。
 
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道がある
城道であろう。
 
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Bにとりつく
 
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高所、郭1が監視する
 
小松原城概念図
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 愚図ですが宮坂武男『信濃の山城と館3』を参考にブログ説明用として書きました。郭・虎口名は同書に準拠し、郭1・3内の凹凸は略してあります。
 1が主郭で、周囲を土塁で囲い、北面は横堀を回して防備を固めている。
 他のエリアの塁線には土塁による防備を施している。
 
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B付近は岩と土塁とで関門となっているようで小松原城の入り口であろう。
この時点で、戦闘よりも信仰を感じ取る。
城の入口(城門)というよりも岩の畏怖そのままの宗教施設の入口造作ではないか。
 
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B開口内
窪状になり、土塁の仕切りがある。
窪・仕切りの奥は郭3。
 
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郭3(後掲)には入らず、北上
 
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斜行した上に主郭虎口
 

   

主郭
 
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主郭虎口
掘り込まれている。
 
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主郭内
岩の凹凸と傾斜があり削平はできていない。
しかし、土塁で囲郭され、城としての備えはしっかり造られている。
 
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郭内から虎口
 
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主郭南東隅からB監視状況
写真右下部、主郭よりも一段低い区画もB監視用途か。
 
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中央やや南西の岩上に祠
 
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信仰心による造作
 
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祠から主郭郭内北東
犀川を視認。
 
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囲郭土塁
 
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さらに横堀がつく
これは驚き。
 
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第2から3回川中島対戦が行われた天文・弘治年間に横堀を構えていたのか
それはないであろう。
取り立ては、天正壬午の乱の上杉勢か。
 
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横堀と囲郭土塁の二重塁線で主郭を守る
小松原城は、信仰の場を囲郭造作で城郭としたものと考える。
 
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堀底
素晴らしい横堀陣地。
 

   

南部 郭2・3
 
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主郭切岸したに、不整地だが、広く郭3
東にB。
西側、崖上高く三角形の郭2。
郭3は主郭・2よりも低く監視下にある。
 
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三角形の郭2
東端は主郭土塁が沿う。
主郭・2とで郭3を監視という意図を持った造作のようには感じない。
防御を意識した縄張りというよりも、元来の地形を活用した結果なのではないか。
 
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主郭南西端から郭2・3東土塁
 
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天端
通路。
南西に郭4。
 
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郭4
南から西に土塁を構える。
しかし、城の南西を守る郭にも感じない。
戦闘とは別の意図(機能)の郭ではないか。
 
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A虎口から郭3
高所は主郭。
この城は宗教者の空間であろう。
 
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A虎口
両脇に土塁。
 
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郭3南部
切れる箇所もあるが、土塁が延びる。
 
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南端へ向かう南西面土塁
 
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西面土塁
 
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Bに戻った
防御施設としての畝や土塁ではなく、岩に宿る霊性を畏怖するままなのではないか。
 
  まとめ
 
 宮坂先生は、この地方は小田切氏の勢力範囲に属していることから、小松原城は小田切氏の犀川以南の要害城として使われたことを推定している。
  小田切氏は犀川対岸吉窪城を要害とし、犀川以南へも進出、戦国時代には上杉方に属し、小田切駿河守は葛尾城を守って討死、後武田に従い、さらに上杉に属し、一流は徳川旗本となったという。
 
 私は、城内の不整地状況、畏敬の念を抱く岩々の存在、郭のとり方が防御施設としての意図を感じないことから、宗教者の信仰・修行の場であったものを、戦国の情勢が緊迫したときに、武士が土塁と堀によって主郭となる宗教空間を囲郭(南面郭3側は急壁)し、城域となるエリアの塁線に土塁による防備を施すことによって、取り立てた城ではないかと考えている。
 あるいは小田切氏が宗教者であったのかもしれない。
 
参考文献 宮坂武男(2013)『信濃の山城と館』、戎光祥出版、pp.236-7
   
 天正10年8月5日小幡山城守宛上杉景勝朱印状(上越市史別編2510)に、
 任持来旨、出置地覚
 一、小松原百貫山共ニ、とある。(202110.19追記)