虚空蔵山城(長野県上田市塩尻字虚空蔵山 坂城町との境) | えいきの修学旅行(令和編)

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 天正11年3月、上杉景勝は、島津忠直を虚空蔵山城に詰め、真田への圧迫を強める。
  同月、虚空蔵山において真田との間で戦闘が行われる。
 この時、上杉方駒澤主税助が打死を遂げる(上越市史別編2710)。
 
 駒澤は、長野市北部髻山城南東麓を本領としたと思われる侍で、天正10年6月20日、直江兼続より、本取山に景勝軍の陣の確保を指示され(1)、本能寺の変の後、北信に打って出る上杉方の先方として活躍する。
 
 上越市史別編2710文書は、この駒澤の打死を賞し、跡目相続の人選を駒澤の寄親的存在とみられる嶋津に指示している文書である(2)。
 
  天正11年3月21日付 嶋津淡路守忠直宛 直江兼続・狩野秀治連書状(上越市史別編2710)
 
     如御注進者、真田向虚空蔵相働之処、味方中備しとけなく敗軍、不及是非次第候、然者、駒澤主税助打死、其時之有様承、 御当代(景勝)之御ほうし忝存詰、一度一命ヲ御用ニ可立之由、連々被申之旨人々申候キ、其首尾相たかハす、一身之以打死ヲ数百人を相たすけ候事、誠有間敷儀感涙流候、 御耳立候へハ、別而不便之由、 御諚候、扨彼仁事者、兼々之以分別御用ニ被立候間、無是非候、老父其外兄弟衆かん〱有之由候間、重而、貴所御分別次第代職儀ヲ被仰越、涯分可遂披露候、恐々謹言、
 
  この史料、 戦国の侍にとっての打死という事象がどのような事であったかを私に彷彿とさせた。
  私は、高校生の時見たNHK水曜のドラマ真田太平記で、真田が徳川へ対抗するため、昌幸が信繁を伴い景勝のもとへ臣従を誓いに行ったとき、人質として差し出される信繁に対し、景勝がそれは後でよい、「討死いたせ。」と、刀を遣わしたシーンに体が震えるほどの感動を覚えた。その感動は、今も私の胸中に宿り、時に戦慄する。今思えば、これが、私の景勝推しの源泉か。
 相手がその真田であるが、私は、上杉の侍にとっての討死を伝える本史料を目にしてより、駒澤打死の地である虚空蔵山に立ってみたいと願っていた。
 
 その虚空蔵山城に、今年5月、信濃先方衆らんまる・ていぴす両名の案内で立つことができた。
              
虚空蔵山城
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 坂城と上田の境の山嶺に連なる城砦群(記載の他も合わせて計九つの城砦からなる)を村上連珠塞あるいは、総称として虚空蔵山城という。
 村上義清が葛山城に健在時は、村上と真田の境であり、天正壬午の乱では、上杉と真田の境である。
虚空蔵山城の西下鞍部には、乗り越しの古道が通り、上田側山下の塩尻は、太平洋側から運ばれる塩の北限であろうか(3)。坂城にとっては南の関門になる。
 
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西端は岩鼻と呼ばれる千曲川断崖、岩鼻で、断崖上は和合城
 
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坂城側から
景勝麾下北信の兵が集められたのは、坂城側山下であろうか。
 
 登路は坂城側から林道で和合城と高津屋城の間の稜線まで登り、稜線を西から稜線上を高津屋城鳥小屋城→古道が乗り越す虚空蔵山城西下鞍部→虚空蔵山へと至るのだが、その登山行程は稿を改めて紹介する。本稿では虚空蔵山城西下鞍部から主城である虚空蔵山城へと引導する。
 
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林道下馬地点
えいき愛馬とらんまるジムニー号。
ういやつ♥
 
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道から稜線登山道への取り付き
カメラの設定を行う馬念さん、ななこさん。
急遽関東から合流。ジムニーは4名定員のため、私のジムニー搭乗は成らなかった。
 

 
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小屋城から鞍部に降下
 
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虚空蔵山西下鞍部
左坂城側「おんど窪」と、右上田側「上塩尻」を繋ぐ古道が乗りこす。
林道から68分。
坂城・葛尾城の南の関門である。
しかし、乗り越し部そのものには要害普請は無い。
 
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坂城側葛尾城
 
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うぃ
 
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虚空蔵山への誘導版があり、迷うことはない
迷えない…。
 
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いよいよ虚空蔵山城
堀アを前に、らんまるさんの微笑み。
その妖しさは西洋の絵画を超える。
 

 
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虚空蔵山城鳥瞰図
現地説明版に、掘、郭名を宮坂武男『信濃の山城と館3』(4)に準拠し、加工。
以下、呼称・実測値は同書に拠る。
 
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上幅16m。
林道から95分。
 
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北 稜線下に郭3・2・4
 
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頭上に馬出し、郭1
馬出しが、堀アを監視。
 
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馬出し
北は主郭に向かって土塁が沿う。
 
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土塁
 
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直下に堀ア、稜線北下の郭3・2・4方向への通行を監視
 
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主郭へ
導線は南石塁西端が正面から監視、狙撃か可能か。
 
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うぃ
 
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このような山の上に、このような虎口
 
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虎口前
虎口突入を目指す勇者は、石塁上からの狙撃、妨害により、ここに落される。
 
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山上ではあるが、虎口前導線、馬出し、馬念さんと、強固に備えている
 
参考として髻山城主郭虎口前写真を掲載する
 
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主郭側から虎口前導線
 
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主郭虎口への導線
 

 
郭内
 
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虚空蔵山城主郭
 
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郭内から虎口
 
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幸せいっぱいの、らんまるさん、ななこさん、ていぴすさん
 
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信仰と城が、最近の私では繋がる
 
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下に郭2
将兵の居住は、稜線上ではなく、稜線で風を避けて郭2・4であろう。
 

 
山頂へ
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山頂側から郭1
 
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山頂手前に堀イ
山頂は、一応城域に取り込んでいるが、堀で、区切っている。信仰域としての区切りであろうか。
 
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北尾根は堀ウが区切る
 
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堀ウ
 
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郭4から2
 
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山頂
 
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南から攻め上るは無理
 
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真田側は、段を連ねるが、さほどの防御構造は無い
ただし、稜線上に積城、亀井城を連ねている。しかし、これら2城も要害普請は厳しくはない。
 むしろ、南に派生する尾根中腹に構えられた飯綱城、持越城、燕城、ケムリ城(次記事にて書きます)、物見城が厳しく普請されている。
 
 この虚空蔵山山上まで真田の兵が攻め寄せ戦闘が行われるとすれば、それは落城迫る戦況であり、駒澤が一身の打死をもって数百人の味方を助けた戦闘は、古道鞍部からの登坂ルート上、あるいは、南に派生する尾根中腹に構えられた要害においてではないだろうか。
 
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眼下に上田城
 真田は徳川を後ろ盾に、尼ヶ淵城(上田城)を築くが、虚空蔵山を上杉に押さえられ、天井から監視されながらの築城であった。真田が上杉に従属するのは、天正13年7月であるが、虚空蔵山から上田城を見下ろしてみると、あるいは、真田は、内々には上杉に屈服しつつ、徳川従属を装っていたようにも思えた(5)。
 
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東稜線上に連なる積城、亀井城
 
行きました。
記事はあらためて。
 
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上田原眺望
ここで、武田vs村上の死闘を見ていた者がいるはず。
修験者、長尾、北条の忍者等が、ともに観戦していたやも。
 
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髻山城主郭からの眺望
駒澤の境地や如何に。
 

 註
 (1)遠藤公洋(2009)「髻大城と長野県北部の城館遺構ー横堀遺構に着目した再評価の視点ー」、『市誌研究ながの』、第16号、p.42
 (2)池上裕子(1998)「戦国期北信の武士と上杉氏の支配」、『市史研究ながの』五号、p.22
  (3)馬念さんの教示による。
 (4)宮坂武男(2013)『信濃の山城と館3』、戎光祥出版、pp.250-1      
 (5)遠藤先生との雑談による。