家ノ浦城(上越市浦川原区) | えいきの修学旅行(令和編)

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 入河沢城に続き、近所の城・家ノ浦城を書きます。
 家ノ浦城も、同城の特徴的な折れ歪み構造を、近所の特権を利用した雪消え直前の格好のタイミングで撮影することができました。
 折れ歪み構造は、十字尾根地形のためか、入河沢城には無い構造です。
 
遠藤公洋作図家ノ浦城縄張図(「戦国期越後上杉氏の城館と権力」より引用・ブログ説明用に茶字加筆イメージ 1
 主郭1の南東に折れ歪構造の堀c、東に竪堀fを構えている。竪堀fは、もう一つの折れ歪み構造堀aと塹壕状構造bと連結した構造である。堀cの折れ歪構造は横矢掛けであるが、郭1出入口には遠い感があり、出入口への横矢を主意とした構造ではないようだ。
 東方は唐野山に至るが、さらに堀gにより警戒している。浦川原村史や上越地域の通説では唐野山を詰の城としているが、家ノ浦城の警戒方面であり、私はそうではないと考える。
 
 家ノ浦城は、塹壕状構造b、竪堀f、堀a、c、gにより東方を警戒した城である。          
 
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林道から南に踏み込む(取り付き地点地図・写真は後掲)
5分ほどで郭1に北から入る。
 
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1の10mほど下方に北に向かってテラス状(塹壕状構造か)の陣地様構造がある。
浅く、遮断機能ではない。
緩斜面に対する塹壕状陣地と考えることもできようか。
 
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城構造と見てよいと思うが植林にともなう構造かもしれない。
 
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二段構造のようだ
 
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家ノ浦城主郭1(北端から)
浦川原村史によると長さ25m、幅6m(以下、実測値は浦川原村史に拠る)。
左(東)下に副郭。
奥(南から南東)に折れ歪み構造をもつ堀cとその先に郭2。

 

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郭1南端は堀c折れ歪に沿って低い土塁が設けられている
 
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折れ歪を利用し、防御する兵が拠る土塁であろう。
 
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で、
ドーンと堀c折れ歪み構造
 
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このタイミングならではの残雪効果。
まさに近所の特権。
 
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折れ歪張出部
低い土塁が沿う。
 
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張出の裾 折れ部
 
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折れ歪張出部より北東
郭1-2間の土橋状通路(出入口付近は後掲する)に横矢を掛けるが、遠い感がある。
 
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掘c南西部
 
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南西端は竪堀状に降る
 
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堀c南西竪堀部
 
   せっかくなので堀c底を郭1-2接続土橋まで辿ります。
 
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掘c南西竪堀変化部
 
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左折れ
 
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次いで右折れ
鉤型。
堀cは、壁の高さ、堀の深さから、遮断構造の堀であろう。
 
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頭上郭1内は土塁は沿う
 
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先に郭1(左)ー郭2(右)を接続する土橋
土橋の向う側は竪堀f。
 
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土橋
では郭1ー郭2接続部の構造をみて、郭2に進みます。
 

 
郭1南東隅出入口構造周辺
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郭1南東隅から郭1-2の通路
郭1南東隅下で竪堀fと堀cの間を土橋状に郭2と接続する。
 折れ歪を関連させた構造であるが、運用がはっきりしない。天正6年前後における出入り口構造の発達途上か。あるいは、主体者の築城レベルと捉えてよいのではないか。
 
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郭1からの接続出入口
掘り込みは見られない。
東副郭端にいったん降りて接続する
 
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郭1東下副郭
副郭東下には塹壕状構造bを張り、防御を固める。
 
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竪堀f下方は左(北西)に塹壕状構造b、やや下方右(南東)に折れ歪み構造をもつ堀aが連結する
 
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塹壕状構造b
掘としての遮断構造は持たず、迎撃陣地を指向した構造のようだ。
横堀陣地までは発達しておらず、横堀陣地への発達途上と捉える。
 
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掘a
写真奥で折れ歪む(後掲)。
 
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掘a連結部から竪堀f上方
 
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上方 郭1から東副郭隅を引っ掛け流出してきた通路
土橋を経て郭2と接続する。
下に降るは竪堀f。
屈曲、隅、竪堀f、堀cと相関した出入口だが、一見技巧的に思えるが、巧妙な仕掛けとも思えない。
本章冒頭の切取り縄張図の次の写真、と同地点を下方からみている。
 
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上方接続土橋から南西
掘c折れ歪みに伴う郭1張出から横矢を受けるが、遠い感がある。
 
郭2へ
 

郭2

 
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接続部付近から郭2
良くわからない写真である。
 
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郭1張出から俯瞰
東部(正面奥)は削平が雑で小高い小高い先に堀g
南(右)は急壁。
 
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南面急壁
 
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東部小高い
唐野山に至る尾根で、下方に遮断堀切gで遮断している。
 
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東尾根遮断堀切g
ややボケ。
 
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これは鮮明
 
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北端は、折れ歪構造堀aとの間で、土橋というか土塁状
郭2と東尾根との接続口と捉えるか、両側の堀に対する防御構造と捉えるべきか。
 
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南 掘g
堀、壁高く、明確に東方を遮断。
 
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北西 堀a折れ歪構造
 

 
   まとめ
 
 平成29年雪解け時期、雪消え直前の絶好のタイミングで入河沢城に続き家ノ浦城の遺構も撮影することができた。近所の特権を利用し、両城の現況を詳細に伝えることができたと自負している。
 家ノ浦城には入河沢城には無い折れ歪構造が、入河沢城は家ノ浦城には無い堀込虎口が特徴的であった。両城とも御館の乱の伝承を伝え、近隣のほぼ同時期の城であるが、このように城郭構造・形態に差がある。
 折れ歪構造は立地地形によるものと考えるが、虎口構造の相違は、両城の機能・位置づけ・築城時期の差を示唆するのではないかと考えている。解明できたわけではないが、入河沢城のほうが、家ノ浦城よりも上位権力に近い主体によって築城され、御館の乱後のやや新しい時期まで役割をもって機能したのではないかと考えている。
 天正期上杉の城郭普請構造・能力の検討は、私の遥かな修学旅行のテーマである。いつか解明に至りたい。
 
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 家ノ浦城を、その特徴的な折れ歪構造を中心にこってり書いてきてなんだが、2・30人程度の襲撃であれば、この折れ歪構造・縄張りで守り切ることはできると思うが、100人程の軍勢に攻められた場合、はたして守り切ることができるのだろうか疑問でもある。また主郭を守るという戦闘のための構造・縄張りでもないように思える。西方下と想定される居館・集落区域(遠藤 2004,p.25)の後方を守る(東方からの襲撃に対し)という機能を意図し、築かれた構造ではないだろうか。
 
 家ノ浦城は、御館の乱の争乱の最中、岩野集落に居住する土豪が、東方からの襲撃に備え、家の裏を守るために構築した構造であろう。
 

取り付き場所

 
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を右に踏み込む。
 私は過去に二度、城地点が特定できず山中を彷徨ったあげく断念したことがある。今年は佐藤春雄さんに地図にマークいただき、到達することができた。残雪ある中での撮影を狙ったこの日、私は徒歩で林道雪上を接近、城域に至るを得たが、下山時には林道の雪が上越市によって割られていた。
 
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 重機を運転する方が除雪前の林道脇山中から突然湧き出した私に驚愕され、「何してるんですか」と怪訝な面持ちで問われた。「山城の調査です。ここ、家ノ浦城っていう山城なんです。」と教えてあげたが、怪訝な表情のまま、行ってしまわれた(作業をお続けになられた)。
 
 家ノ浦城踏査は、市による雪割直後、4月上旬がベストです。

参考文献 浦川原村史
       遠藤公洋(2004)「戦国期越後上杉氏の城館と権力」