寺脇城(愛知県設楽郡大字東納庫字軒山) | えいきの修学旅行(令和編)

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寺脇城
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名倉奥平氏の本城とされる。
名倉奥平氏に関して、鍬塚城で書いたことは省きます。
以下追加分。
 
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天正三年、設楽ヶ原の前哨戦での名倉奥平氏の動きを平山優(2014)『長篠合戦と武田勝頼』より引用。
 
     「奥平定能・信昌親子と歩調を合わせて、武田氏から離反していた名倉奥平信光は、津具(愛知県設楽町)筋に独自に侵攻し、後藤久左衛門ら多数を討取った。家康は四月十二日に奥平信光の戦功を賞している(『譜牒余録』『愛知県史資料編11 1078号』)」。この時奥平信光に討たれた後藤氏とは津具城主で、この地域には武田氏の支配する津具金山があり、金堀奉行屋敷も配置されていたと伝えられる。」(平山 2014,p193)
 
 津具城、鍬塚城で提示したえいきのスマホyahoo地図に★がありませんでしたので示します。もちろん踏み歩いています。
 この津具城も近隣の武田圏城郭として書きますので記憶下さい。
 
 「その後、名倉奥平信光は徳川方として松平忠明、忠吉に従って尾張清洲城の家老となり、戸田加賀守と改名している。」(宮坂 2015,p441)
                      
 では寺脇城、宮坂武男(2015)『信濃をめぐる境目の山城と館 美濃・飛騨・三河・遠江編』、戎光祥出版を基に辿ります。 郭・地点名は同書に準拠します。
 
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脇城主郭(郭1)
 
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寺脇城主郭は三方背後を分厚い土塁と堀(イ)によって守られている。
賽之神城、鍬塚城でも感じたが、奥平氏の重厚な土塁は共有の構造であろう。
 
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土塁南端
 
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南西から内壁をみる
 
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天端を歩きましょう
北西隅は幅広に出張る櫓台状。
左、主郭土塁背後は外線にも土塁を備える堀イが巡る。
 
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土塁下、外に土塁を沿わせ巡る堀イ
下でみると横堀状(後掲)。
 
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南西中央付近
 
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土塁上から主郭1
 東から南面は土塁を備えていない。賽之神城、鍬塚城でも重厚な土塁は、主郭を全周囲郭しておらず、開放面も設けている。
 
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高さがあり、城壁様。
 
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内面に比し、急である
 
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北コーナー
 
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東端から北コーナー
東端脇に虎口C
                  
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主郭虎口(桃囲い)は虎口Bと虎口Cが設けられており、虎口Bが大手、虎口Cが搦手であろう。
 大手虎口Bは、賽之神城虎口Cとの比較のため、私は特に注目している。虎口Bは枡形状で、桝形からスロープ状の土橋で出る。
 大手ルートは墓地のあたりから堀ア底を通り、関門Aで城内に入る。関門Aは側面を竪堀で狭められ、段差をあがる。
 寺脇城も、城内郭は、堀切で区切られていない。
 
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主郭搦手虎口C
郭3下方に北東の堀(後掲)
 
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郭3から虎口C
 
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主郭大手虎口B 
 
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枡形である
 
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傍に石の集積
これも旗塚と思うが、里に近いので境界を示すものかもしれない。
 
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外から主郭大手虎口B
 明確に張出に当たり、折れ入る構造ではないが、左側主郭角に当たり、スロープからカーブする(さらに後述します)。
 天正期、北陸の佐々、前田といった織田配下部将の手による構築(改修)した城では、張出に当たり、折れ入る枡形虎口が構えらている。
 
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枡形先はスロープ状に土橋がカーブ
では、大手ルートを登城してきましょう。
 

             
大手ルートを登城します
 
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寺脇城の看板あり
 
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金網の奥、左に墓地
 
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墓地で右折れ
墓地の裏にも分派堀アが抉る。
 
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堀ア底に繋がる掘割道
 
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堀ア
堀底が大手の通路。
大手登城路としての威容を放つ。
 
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郭4段差にあたり、左折れ(右は竪堀・土塁で回り込み阻止)、関門Aとなる
左側面上郭2、正面郭4から撃たれる通路である。
途中、左に稲荷参道があるがパス。
 
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壁にあたり、左折れ
 
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関門A
折れ、坂、狭まり、進攻速度は落ちる。
 
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関門A内は、城内郭4
 
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左側面は頭上から郭2に完全監視
あたかも殺傷意図が降りかかる気分。
関門A前の戦闘場を振り返る。
 
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関門A
 
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攻防の切所…
 
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関門A東回りは竪堀・土塁で回り込み阻止
 
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郭2切岸下を郭4を通過
左に折れあがり主郭大手虎口Bへの導線。
奥に進むと北西堀切に合流し搦手虎口Cへ至る(後で)。
郭4東下方には郭5。
寺脇城も、城内郭は、堀切で区切られていない。
 
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郭4
 
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東下方に郭5
 
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郭5北西端は土塁で進入を塞ぐ
 
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郭4から主城域
郭2-3ラインの壁を登り、スロープ状土橋から桝形虎口Bに入る。
 
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郭2-3ラインへの登り口
先にスロープ状土橋。
 
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郭2-3ラインあがると右に郭3
 
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左に郭2
その間を通り、
 
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スロープ状土橋から主郭大手桝形虎口Bへ
途中、旗塚らしき石の集積。
 
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  織豊の、張出に明確に当たり、折れ入る構造ではないが、カーブするスロープから虎口脇(主郭角)に当たり折れ、桝形に入る。
賽之神城同様、奥平氏における虎口構造の進化形態と捉える。
 
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郭大手桝形虎口B
枡形奥で右折れし、主郭内へ入るようだ。
 

                   
城域北線へ
 
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郭3下郭4を北へ
 
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郭4北端は、壁高く寄せ付けない
 
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上方には北東の堀が守る
しかし、堀でもあり掘割道でもあるようだ。
左に郭3へ上がると先述の搦手虎口Cへの導線。
 
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北東の堀
 
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北東の堀北西端
道が入っていたのであろうか。
 
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ちょい手前、左に主郭背後の堀イ線
 
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主郭背後の堀イ
 
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横堀状に見える
 
 寺脇城まとめ
 
 名倉奥平氏本城寺脇城は、本城ゆえの威容を示す登城路設定が成されている。
 また、元亀・天正と武田圏、織田徳川圏と、所属圏が変わる戦国後期最厳の境目において、所属大勢力の築城術の影響を受けながら改修強化された様相をその構造から読みとることができる。
 横堀形状に、武田徳川(2021.3訂正)圏の影響を、虎口・土塁構造に、賽之神城・鍬塚城系統、つまり奥平氏独自の進化形態を、また堀切によって郭を区切らない縄張に、西国圏の影響を私は捉えている。
 鍬塚城同様に、大勢力が主体になり構築した大規模築城ではなく、名倉奥平氏が主体に改修した普請であったことと考える。
 

 
参考文献 平山優(2014)『長篠合戦と武田勝頼』、吉川弘文館
       宮坂武男(2015)『信濃をめぐる境目の山城と館 美濃・飛騨・三河・遠江編』、戎光祥出版