謙信道3・灰野峠周辺(長野県高山村と須坂市の境) | えいきの修学旅行(令和編)

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間山峠を越え山田城麓を通った謙信道は、灰野峠へと向かう。
その灰野峠の北麓には上野・勝負田という地があり、謙信道はそこを通って灰野峠へと登っていく。
灰野峠の周辺は大岩須田氏の本拠に近く、大岩須田氏居館と要害大岩城、雨引城、月生城という3城が構えられている。
 ここは、平成26年、宮坂本8が刊行されて以来、私の心を虜にしたなんとも魅惑的なエリアである。
 越後から南下し、海津城へと至る北国街道と、上野・吾妻郡への万座道、真田または途中鳥居峠を経て上野・吾妻郡へ至る大笹街道が福島城付近で交わり、布野の渡し場で千曲川を渡ると、善光寺にも至る。
 
 要衝である。
 
 第三次とされる川中島合戦
 弘治3年(1557)2月、越後長尾(上杉)方の落合氏が守る葛山城が武田に攻め落とされると、中野小館・割ヶ岳城から飯山城に、また長沼城の嶋津氏も大蔵城に退き、越後長尾景虎の救援を待つ。井上氏は越後に逃れた。須田氏は、須田城の須田信頼・信正父子は武田に付き、大岩城の須田満国・満泰兄弟、満国の子満親は越後に逃れ(宮坂本では永禄2年としているが、高梨氏の中野退去と同じころではないだろうか)長尾景虎を頼る。
 景虎はこの年、信濃更科八幡宮、小菅神社へ、信濃諸氏の依頼による信濃救援の出陣を宣誓し、晴信打倒を願う(誓う)願文を奉じている。
 景虎は信濃に出陣、謙信道沿いにある枡形城(山田城)、竹の城北西約2.5kmの福島城を攻め落とす。さらに善光寺から村上氏旧本拠坂城まで攻めこむ。そして8月、上野原で合戦が起こる。(矢田 2005,p173)
 
 つまり、このエリアが第三次川中島の戦いのメインステージではないか。
 
 25年後の本能寺の変の後、上杉景勝は北信に進出、その折りの動きは、昨年井上城・竹の城を書きながら修学した。
       
今回のテーマ、灰野峠周辺の月生・雨引・大岩の3城 
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 灰野峠の西、明覚山に至る稜線には雨引城が峠を扼し、大岩須田氏の要害大岩城の背後を守り衝立聳えている。
 雨引城は大岩城の背後を守り灰野峠を扼す詰めの城として、大岩城と一体となった城であったことと考える。
 脇には虎が伏せるように月生城が控えている。この月生城、謙信道を強く意識した城と考えるが誰が築いた城なのか史料はない。伝承として、上杉軍が山下に軍馬三千頭を隠して川中島に出撃したと伝わる。また、武田家臣安間氏の伝承もある。越後の勢力下から武田の勢力下に移ったということか。本能寺の変後は、この地域は越後から北信に進出した上杉景勝の勢力下になる。
 
 川中島の戦いというと大方は八幡原で両軍激突したとされる永禄4年(1561)第四次川中島の戦いが想起されるが、謙信道の上杉軍が川中島の戦いの際に月生城麓に三千頭の軍馬を隠し進軍した道という伝承は、第四次であろうか。
 
 弘治3年(1557)第三次川中島の戦いの終盤に合戦となった上野原の戦いの比定地は、長野市妻科上野原説が有力で、他に長野市上野(若槻村)、飯山市静間説も力説されている(柴辻 2013,p32)が、謙信道沿い灰野峠北月生城北麓の上野を、上野原の戦いの地とする説がこっそり須坂市で提唱されている。
 謙信が山下に軍馬三千頭を隠して川中島に出撃したと伝わるのは第三次川中島の戦いではないだろうか。
 
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謙信道を灰野峠へ向かう。
茶、白文字区別は意味はありません。見やすい色を使っているだけです。
 
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生城が見ている
 
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灰野峠へ向かう途上、上野原をみる。
越後を意識したロケーション。
 
 では、謙信道沿いの灰野峠周辺に眠る、大岩城、雨引城、月生城の現地修学を綴り、謙信道・上野原の戦いに迫って行きたいと思います。
 
参考文献 宮坂武男(2014)『信濃の山城と館8』、戎光祥出版
               柴辻俊六(2013)『戦国期武田氏領の地域支配』、岩田書院
       矢田俊文(2005)『上杉謙信』、ミネルヴァ書房