謙信道2・山田城(枡形城)(長野県高山村中山馬場) | えいきの修学旅行(令和編)

えいきの修学旅行(令和編)

えいきの修学旅行を綴ったブログです(ヤフーブログから移設しました)。

 
イメージ 1
石動の館から間山峠を越え南下した先に枡形城別名山田城が在る。
 宮坂本では『長野県町村誌』よると応永年間(1394-1427)に山田氏が居城し、のち幕下となった原氏が居住相襲すとしている。
  後、山田郷は高梨氏の一族山田高梨氏の領するところとなるが、高梨惣領政頼は、文明16年(1484)山田高梨当主政朝が高野山に参詣中に襲撃、奪取する。
高梨氏の本拠は元来小布施であったが、その時点では真山・石動の構えに移っていたかもしれない。一族統制を強める高梨惣領家にとってはその中間にある山田城は欲するところであったであろう。
  また福井城の先、万座道を経て上野吾妻と繋がるルートも存在していたようで、上野とも繋がる要衝でもあったようだ。
 
 弘治三年(1557)第三次とされる川中島合戦の頃に移ります(石動の館の再掲です)。
 
  中野を拠点に北信に勢威を張った高梨であるが、弘治3年2月、上杉方の落合氏が守る葛山城が武田に攻め落とされると、中野小館・割ヶ岳城から飯山城に、また長沼城の嶋津氏も大蔵城に退き、越後長尾景虎の救援を待ちます。井上氏は越後に逃れたようです。
 景虎はこの年、信濃更科八幡宮、小菅神社へ、信濃諸氏の依頼による信濃救援の出陣を宣誓し、晴信打倒を願う(誓う)願文を奉じている。
 景虎は信濃に出陣、謙信道沿いにあるこの枡形城(山田城)、竹の城北西約2.5kmの福島城を攻め落とします。善光寺から村上氏旧本拠坂城まで攻めこみます。そして8月、上野原で合戦が起こります。(矢田 2005,p173)
 
 しかし高梨氏が本拠中野に復帰した形跡は確認できず、景虎が兵を退くと武田の勢力下に戻ったようだ。
 武田晴信は弘治三年3月山田左京亮に山田領500貫、伊藤右京亮に高梨間山郷之内300貫文を宛がっている。注:池上裕子はこの文書をもって高井郡がほぼ武田の支配下に入ったとしているが、柴辻俊六は偽文書としている。(柴辻 2013,p.31)
 が、永禄には山田には山田左京亮が、間山には伊藤右京亮・丹後守(右京亮の子か)、須田対馬守の在住を示す史料があり、そう時を経ず武田の勢力下におかれたことは間違いない。 
 

イメージ 2

間山から謙信道を乗り越し、景虎が越えてきた。
 
イメージ 3
真法寺が山田氏居館跡と伝わる。
 遊歩道は南尾根を通りますが、居館に近い東尾根から南に分派する尾根・八幡社からのルートを大手と考え、八幡社から登りました。概略図、尾根の普請は省略してあります。
  
イメージ 5
山田氏居館跡と伝わる真法寺
山田氏が居館とし、後、原氏が住んだという。高梨政朝の居館があったかはわからない。
 真法寺設置説明板(高山村教育委員会)によると、原氏が移り住んで三代原兵庫守は天正6年3月山城が焼却したので奥州へ下るとある。りんごさんの質問と関連がありそう。
  
イメージ 4
境内から山田城 
 
イメージ 46
史跡 枡形城跡入口のある登り口
 
イメージ 6
私は八幡社から登ります。 
 
イメージ 7
社殿背後、竪堀のうえに堡塁がある 
 
イメージ 8
堡塁通過して上から 
三方向に竪堀が走る。 
 
イメージ 9
登ります。 
道はありません。 
 
イメージ 10
宮坂図、塚の付近
 
イメージ 11
段になっており、尾根を登り来る敵への防御点か。
  
イメージ 12
登ります。 
この上が、東尾根が東と南に分派する地点。 
 
 写真、大きくします。
 
イメージ 43
東と南に分派する尾根が集まる地点
左が東尾根山上方向
 
イメージ 44
東尾根東山下方向
下方に宮坂図堀シがあるが、行きませんでした。 
 
イメージ 13
山上方向
北側は土塁状。 
 
イメージ 14
緑が馬蹄段
宮坂図では8段を数える。
馬蹄段は石で造作されている。
 
イメージ 15
石の造作
投石用としても、殺傷力が高そうな形をしている。
 
イメージ 16
この写真のほうが馬蹄段がわかりやすいか。
 
イメージ 17
そのうちの一段
 
イメージ 18
7段目から上、郭2南東隅に至るが、ここから岩盤が立ちはだかり、強烈に危険に堅固になる。
(ここまで八幡社から24分)
私はルート通り目指しましたが、断念することになります。
 
 で、ここから左に南東斜面をトラバースし、南尾根から山上に向かうのですが、私のスリリング感を写真でお裾分けします。8段目から二郭へ向かった私の健気な努力をご覧ください。
 
イメージ 19
7段目へ
 
イメージ 20
8段目
ぎゃっ
 
イメージ 21
りょっ
 
イメージ 22
にょー
危険すぎ。
みなさんは止めた方がいいです。
 
イメージ 23
と、光明刺すように郭2南東隅が!
で、取り付き這うようによじ登ったのですが、奥で笹が大きく擦れ合う音が…。
ここでクーさんに出会ってしまっては、絶体絶命…。
断念し、焦らぬように慎重に退却しました。
 

イメージ 24
7段目下から南西に、南東斜面トラバースします。
 山田城に先立って行った大岩城でトラバースを試みた際、あまりの急傾斜に進退窮まり、命の危険を感じましたが、ここはできそうです(できました)。
 
イメージ 25
南東斜面
気を付けていけば可能です。
 
イメージ 26
頭上は郭2
頭上から投石、射られながらでは無理でしょう。
 
イメージ 27
南尾根が見えました。
 
イメージ 28
南尾根にトラバース成功
トラバースに要した時間は6分。

 

イメージ 29
南尾根下方、史跡 桝形城跡入口の標柱がある登り口に至る。
 
イメージ 30
南尾根から山上方向
 
イメージ 31
うっ、クーさんが居そう
 
イメージ 32
ぜったいさっきのクーさんが居そう
鈴を鳴らしまくり、振り振り、「人ですよー」と声を出しながら進撃。
途中、石の集まりあり。
城戸か投石用集積地点か。
 
イメージ 33
きわめて劇的な演出に思えるが、クーさん居たらいけません。
 
イメージ 34
石段
土だと滑って登れないかもしれない。
 
イメージ 35
郭2へ南隅から到達
クーさんがいないか細心の注意を払う。
 
イメージ 36
断念した南東隅、東尾根からの口
 
イメージ 37
郭2 北東上方に山上主郭
北東面には土塁線
 
イメージ 38
郭2は北東部一段高くなる
 
イメージ 39
郭2段差から
 
イメージ 40
郭2高部から山上
山田君のよう
 
イメージ 41
東斜面
石垣が全周していたか。
 
イメージ 42
西斜面
 
イメージ 45
もうすぐ主郭
引っ張って引っ張って長くなってしまいました。
郭1、北西尾根、北東尾根はその2で。
 
参考文献 間山区史編纂委員会(2005)『間山区史』、第一企画株式会社
       矢田俊文(2005)『上杉謙信』、ミネルヴァ書房
        柴辻俊六(2013)『戦国期武田氏領の地域支配』、岩田書院
               宮坂武男(2014)『信濃の山城と館8』、戎光祥出版