北条城4 | えいきの修学旅行(令和編)

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 4では、白囲い部、普広寺口の東郭群、今熊間道が入る北郭を辿ります。
 北郭は箱堀イ、ウによりきれいに整形された郭です。箱堀は新しい時代の普請を思わせますが、防御的には厳しく見えず、戦闘的な普請ではないようです。
 
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普広寺口へ降りていく遊歩道
 
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左に段郭
 
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段郭
 
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林道を横切り、普広寺へ至る
 
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普広寺
北条氏重臣村山安芸守が開基とされ、門は、北条城搦手門と伝わる。
時代は新しいようだが、北条氏重臣村山安芸守の墓碑がある。
 
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村山家、村山安芸守墓碑
 
城へ戻りましょう。

 
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普広寺口からの遊歩道の東郭群最上段を右へ
高地は3で辿った大家城内居館
 
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北に降り口
このルート(3で辿ったスロープ通路に向かうルート)を使うと、大家城内居館・主郭の切岸の威容が鋭い。
 
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大家城内居館の切岸
 
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降り口
 
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切岸下のルート
左に上がると3で辿った大家城内居館と主郭際の堀から段差で降りたところ
 
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再掲
 
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主郭切岸の威容の下、北郭へ
 
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再掲
まず堀アに今熊間道が入るところを
 
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堀ア西端に道が入る
先、北郭が張り出している。
 
戻り、東から北郭へ
 
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南東から
堀イは浅い
 
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浅いが箱状で、端に段差普請がみられる。
 
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端の段差
 
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浅いが美しい箱堀
どのような構想で用いたのか。
 
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北郭
削平もよく、整然と区画がなされている。
防御戦闘的には厳しさを感じないが、避難民の収容スペースといったものではないと思う。
 
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中央になにやら求心的な区画
 
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北端は堀ウ
 
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ここも美しい箱状
 
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張出部、今熊間道を見張ってはいる。
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 北郭の用途はよくわからないが、主郭が細長く政庁や居住機能としては不向きなため、時代が進み、山上に政庁・居住空間を設けるに際し、普請されたものであろうか。
 現在みることができる北条城は、塁線防御、箱堀、段差普請と、永禄頃の普請能力を超えた近代的な上杉普請が施されている。
 御館の乱において、北条城は景虎方(おそらく越後在北条勢)が籠り抗戦したようで、景勝方に善根、赤田から北条城際まで攻めこまれている。
 
 天正7年2月27日 遠藤惣左衛門尉宛山崎秀仙書状
 「(前略)大澤・高柳、自犬伏乗取、日々善根表迄相働候、又赤田よりあせやの地ニ陣取、是も日々北条城際迄相働之由(後略)」  (上越市史別編1777)
 
が、概略でも書いたが、永禄5年ころ上野厩橋に本拠を移した北条が、北条城を改修強化したとは考えにくい。私の史料では確認できないが、花ヶ前盛明(1986)『中世越後の歴史』、新人物往来社では、景勝の臣桐沢但馬守具繁が天正12年城主となり、慶長3年の会津移封まで城主であったと記してある。
 また城数之覚にも北条が在る。
 
 私は、現在私達の眼前にある北条城は、御館の乱後、景勝政権によって接収され、景勝政権中枢によって越後支配の拠点として普請強化され、機能した城と考える。
 北条氏の城、という概念では見ないほうがいい。
 
参考文献 大家健(1998)『図説中世の越後』、野島出版
       上越市史別編
       遠藤公洋(2004)「戦国期越後上杉氏の城館と権力」
注意しながら参考にした文献 花ヶ前盛明(1986)『中世越後の歴史』、新人物往来社