石垣山城その1 別名一夜城(小田原市早川) | えいきの修学旅行(令和編)

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石垣山城二の丸から見る本丸

  天正18年(1590年)、豊臣秀吉が北条氏の籠る小田原城を攻囲する自身の本陣として築いた城で、6月26日に小田原城側の木を伐り払い、突如籠城する北条勢の前に現出させたという伝承から一夜城とも呼ばれる。秀吉は4月6日箱根湯本早雲寺に本陣を構え、この石垣山(笠懸山)に築城を命じた。6月26日に完成、本陣を移したとされる。82日間という短期間の工事であったようだが、けっして俄か造りの陣城ではなく、関東に関白豊臣秀吉の威勢を示し、東国を屈服させる意図の天下人が武断の政治を行う城郭です。
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 本丸設置縄張り図に加筆しました。
  本丸には東と北に入口があります。大手道は、擂鉢状の井戸曲輪の脇を通り大二の丸へ入り、堂々たる石垣面を見せながら北門から本丸へ入るルートと思います。心服していない参集諸将に、擂鉢の底で武断の処置を言い渡される気分を想わせ、脅迫するかのようです。
 
その1では現公園駐車場から南曲輪、西曲輪、東口から本丸へと辿ります。
 
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駐車場は南曲輪の下手にあり、東南から登ります。
 
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南曲輪と西曲輪南面の大堀切
 肥前名護屋城を想わせます。
 
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南曲輪南東隅の石垣
近江穴太衆によると思われる。
上の写真はこの左面 
 右に進むと南曲輪と二の丸東部の間に、折れ登る城道があります。
 
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南曲輪と二の丸東部の間を登る城道 
左右から挟撃されます。 
石垣は地震か、破城の痕跡と考えられる崩れです。
 
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左に折れ南曲輪へ入ります
 
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南曲輪
 
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やや高く、本丸下を西にまわり込む先に西曲輪があります。
 
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西曲輪 
 右上が本丸。右上奥は本丸南西隅の天守台付近
 
 
南曲輪を上がった本丸東下二の丸東部へ戻ります。  イメージ 4
この先に門があったようです。
 
向こうから
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 括れたあたりに、二の丸から本丸東下をまわり、東口、南曲輪、西曲輪方面への関門があったのではないでしょうか。通行は制限されていた気がします。
 
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本丸東口への登り
 
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右へ折れ東門から本丸で入るあたり。 
枡形空間の痕跡でしょうか。
 
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本丸石垣山の石碑付近から相模灘方向 
小田原城は木で隠れていて見えません。
 
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本丸西は崖
 
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南西隅には天守台の跡があります。
 
 その2では大手と思われる井戸曲輪脇の城道から二の丸、本丸北口へと入るルートを辿ります。
 
参考文献 関東の名城を歩く南関東編 黒田基樹著戦国北条氏五代 歴史人戦国十大合戦の謎