大倉城(豊野町大倉) | えいきの修学旅行(令和編)

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 島津氏の拠点、長沼、矢筒の間にあり、島津氏の詰めの要害として用いられたと考えます。武田滅亡後、川中島に入った織田家の森長可に対し起こった芋川首謀の一揆の舞台として、信長公記に伝わります。
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南東からみた大倉城全景
 
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西から見た大倉城
麓の集落が根小屋地区と推定される入集落
 
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国道18号大倉交差点を上越方面に向かって右に曲がり150mほどに大倉城登り口の看板。
地図はこちらhttp://yj.pn/idRJ17
私は林道に突っ込める馬で山裾の取り付きまで突入しましたが、車の進入は困難です。
 
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現地縄張り図に、宮坂先生の縄張り図に使われている郭名、堀切名を書き込みました。
この命名を使い、紫のルートで紹介します。
近世城郭の大手口を思わせる六郭と、二郭西の大堀切ー三重堀切ー大堀切の堅固さが印象的です。
 
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中腹にある看板3
 中腹に用水が流れています。用水が流れる横の通路状の段も遺構のようで、柵列や旗が立ち並んでいた情景を妄想できます。
 森勢によって籠城勢が斬られた場所かもしれませんが。
以下、看板3の説明文です。
鎌倉時代の寛年年間(一二四三~四六)に小笠原信濃守長清が築城、九男与市長澄が大倉氏を名乗って居住したと伝えられるが、文献史料によると戦国時代の永正十年(一五一三)頃には築城されていたと考えられる。
 川中島合戦の頃は上杉氏勢力下にあった長沼島津氏が領有し、長沼館の詰めの城として、また武田氏の北信濃侵攻に対する備えとして機能していた。戦後は廃城となったが天正十年(一五八二)に武田氏を滅ぼして川中島四郡を支配した織田信長の家臣森長可に対して、上杉景勝と手を結んだ芋川荘(現 上水内郡三水村 芋川)の芋川親正を大将とする八〇〇〇の一揆が蜂起し大倉古城を修築してたてこもった。「信長公記」によると四月七日、激戦の末に一二五〇余人が城外で討ち取られ、大倉城は攻め落とされ、城内に残っていた女性や子ども意一千余人が切り捨てられるという悲劇の舞台となった。
 
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六郭に登山道が入ります。
近世城郭の大手口を思わせませんか。
左上が五郭。右に一段高くなって堀切アがあります。
また写真奥斜面には三本の堀切が走ります。
 
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六郭右(東)の堀切ア
 
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堀切ア上部から六郭、五郭方向を見る。
 
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五郭虎口から六郭を見下ろす。
六郭に侵入した敵を迎撃したのであろう。
六郭が内枡形のような機能か。
しかし、六郭前の門前に横矢を掛けにくい角度のような気がする。
 
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五郭
奥の一段高くなっている所が四郭。
北(写真右)の崖には竪堀が三本堀切られている。
 
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四郭
左の高くなっている所が三郭
 
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三郭
石垣というか、石組遺構。
神聖的な上位な郭か。
 
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三郭上から主郭を見る。
間は堀切エが隔てる。
 
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大倉城主郭
右側の低い所に堀切エからあがった道を迎え、写真右奥から主郭に入る。
西武が一段高くなっていて、五輪塔、落城四〇〇年祭の碑があります。
祭って、どうか。
 
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振り返って三郭を見る。
 
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主郭からの眺望。南東浅野長沼方向。
 
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主郭西部の高い段には五輪塔があります。
 
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主郭北西下には井戸を備えた二郭があります。
標柱の手前が井戸遺構。
南西には土塁が巻きます。
北西(写真奥)が搦手方向で、大堀切オ、さらに三重堀切、さらに大堀切ケが厳重に尾根を切ります。
 二郭、主郭が厳重に守られています。
 
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二郭北西大堀切オ
 
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大堀切オから二郭を見上げる。
オとケ(後述)の切り立て方は、凄まじさを感じます。
 
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さらに三重堀切が。
写真には二重が写っています。
 
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三重堀切の先にさらに大堀切ケ
落ちていく切り立て方です。
 
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ケ堀底から三重堀方向(主郭方向)を見上げる。
 
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ケ堀底から搦手方向を見上げる。
 
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大堀切ケの先、搦手方向
縄張り図からすると、まだ先にもう一本堀切があるようです。
もういいって思いました。
 
 
 それほど登りも草もきつくなく、遺構がしっかりわかります。ぜひ訪れてみてください。
 落城悲話が伝わりますが、私は不気味さはさほど感じませんでした。