田立口・木曽ー美濃境(長野県南木曽町) | えいきの修学旅行(令和編)

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  田立は木曽の南部、美濃との境に位置し、田立口には国境の市が立っていた(1)。

  田立の初見は「岐蘇古今沿革志」に木曽家村が「木曽中谷を城となし妻籠に城を築き馬籠・田立・西野・奈川・王滝に砦塞を構え」で、天正5年(1577)武田勝頼が山村良利に与えた朱印状に「信濃境目田立口出会事、一月六ヶ度定日限可令会合」とある(2)。

位置はここ(地理院地図から切り取った)

美濃・木曽の境である。

 

  宮坂武男(2015)『信濃をめぐる境目の山城と館 美濃・飛騨・三河・遠江編城館位置図(3)(以下同書を参考に、測値・城館名を同書に準拠し記述する)には9城館が記載されている。その中で現状でも城館として掲載し得る写真を撮影できた田立砦、坪川砦、観音山砦、池島一貫屋敷を地理院地図にマークした。

 

 田立砦は、標高594mの山上、美濃坂下方面に屹立する武田の最前線砦塞

                             詳細は別記事を立てます。

 

木曽川、坪川の断崖を要害とした坪川砦推定地

 

坪川対岸か

 坪川の渡り場もこのあたりにあったと伝わる。

 

池島一官屋敷伝承地

    旧飛騨街道に接し、写真奥は下方に中央本線、その下方は木曽川。

 

観音山砦

 北から東は長谷川が造る浸食谷が要害し、南は急斜面が守る立地にある。確証はないようだが、南に長谷川の渡り場があり、田立氏の本拠の可能性がある。

台地上には田立小学校が建つ(閉鎖)

 

 木曽側から田立の里

 

 田立口は、天正10年に木曽義昌が織田に通じるまで、武田の最前線にあたる。

 田立砦も、武田滅亡直前まで武田最前線の砦ということになる。それが、私を惹き寄せた。

 次記事は、田立砦。

 

(1)阿部浩一(2003)「伝馬と水運 戦国時代の流通と発達」、有光有學『戦国の地域国家』、吉川弘文館、pp.186-7

(2)(1979)『日本歴史地名大系第二〇巻 長野県の地名』、株式会社平凡社、p.555

(3)宮坂武男(2015)『信濃をめぐる境目の山城と館 美濃・飛騨・三河・遠江編』、戎光祥出版,pp.418-9

 坪川砦、p.542 

 池島一官屋敷、p.538

 観音山砦、p.543