リビングで高校生の息子がお昼寝をする

その安心しきった寝顔を見て思う




こんなふうにお昼寝ができるのって

すごく幸せなことだなぁ…




ペットたちがお腹をみせて寝るのと同じ

安心安全だと感じているから

人もそこでお昼寝ができるのだ



前の私は気付きもしなかったこと

傷ついたから知ったこと


幸せの数を多く数えられるように

成長させて貰っていたんだな


こういうことのために

今までのすべてがあったんだなって

改めて思う



休職させて貰ったことも

今この地に導かれたことも

息子と向き合うこの日々も

元旦那や母とのことも


ぜんぶ ぜんぶ

自分の幸せに繋がってる



幸せをたくさん数えられる私になれて

本当によかったな



私にかかわるすべての人に

心から感謝します


本当に 本当に ありがとう


昨日、復職の延期が決まった。

産業医から「今回の復職は見送って来月にかけましょう。」と打診されたからだ。


私としては、もうひと月長い方が治療も落ち着いて良い気がするのだけれど…?


と思いつつも、とりあえず自分の身体に向き合える時間が貰えるのが嬉しかった。



その帰り。

ゆっくり自転車を漕いで裏道へと続く角を曲がると…


目の前に彩雲が!


思わずカメラを向けました。


あまりいい写真が撮れないなぁ…

とがっかりしながら、また自転車を漕いでいると、今度は反対側に虹が🌈✨



少し進んだところで、左側の彩雲と右側の虹を写真におさめました。



彩雲自体、あまり見かけたことがないのに、虹も同時になんて!

と感動したのと同時に


あぁ、おめでとう!って祝福されてるなぁ…


と感じました。

この復職の延期は、今の私が進むべき方向、私にとって良い選択なのだと思いました。



そして今日。

心療内科へ受診。


前回、休職の延期をするときに「3ヶ月休んだら?」と先生が言ってくださるのを断って2ヶ月にした私がいた。

それで復帰できると思ったから。


でも結果は違って、身体に不調が出てきてしまいまた延期となった。

だから、今度は金銭面での心配だけは伝えて、あとは先生の言葉に従おう。と心に決めてきていた。


ところが、診察室へ入ってみたら、水曜日に「今年いっぱい休んだら?」と言っていた先生が、「じゃあ、あなたの言う通り10月いっぱいの休みにしよう」って言ってくれる。


「診断書、今から書くからちょっと待ってくださいね」と言われて待合室で待っていて、もう帰りのバスには間に合いそうにないな、そうなると1時間後だな…と思ったところで呼ばれて会計が終わり、バスに余裕で間に合って。



驚くほどスムーズに。

全てがスルスルとなんの抵抗もなく進んでいく。


なるほど、なるほど。

これが宇宙と繋がるってことなのか。



さて次だ。

どの方向が私の良き方向なのか。

身体中すべてのアンテナを最大限に使って、感じ取っていこうと思う。

そして、いただいた貴重な時間を大切に使わせて貰おう。




ひと月前、行き詰まった私が受診した日。

コペルニクスの話と一緒に、もう1つステキで大切なことを教わった。

それは、



『すべてのことは能力に変わる』



ということ。

引きこもる人というのは、孤独でいられる人。

何かの折に人と関われなくなっても大丈夫な強い人(=能力)、だと。


ただなんとなくダラダラと毎日を過ごしてしまう人も、マイペースにリラックスして過ごせる人と考えればそれは能力なんだと。



「だから、思い出してみて。あなたが今まで言われて嫌だった言葉はすべて、あなたの能力なんだ。」



これを聞いたとき、母から高校生の頃言われた『理屈っぽい』という言葉を思い出した。

母は、私が自分の考えを引っ込めて母に従うように言っていたように思うけれど、今思えば感情に任せて反抗していたわけじゃなく、理屈で考えられるのは悪くは無い。


なにより、その『理屈っぽさ』のおかげで、今こうして苦しみの根本から抜け出そうとできている。

ホント、能力だ。

そう思った。



この考え方を知ってから、今まで少し嫌に思ってしまっていた人のことも良く捉えられるようになった。

良いとこさがしのように。


たとえ一瞬カチンときても、すぐに反応せず、ゆっくり考えて、その人も良いところを見つけられるようになってきた。

…ほんの少しだけ。



コペルニクス的転回の話と能力の話。

私を大きく変えてくれたこの2つの話を、私はずっと忘れないようにしていきたい。

そして、必要な誰かにも教えてあげたい。


誰かの心にも、光がさしますように。


あれからひと月。

私は生きることを選んだ。


あの記事のあと直ぐがかかりつけ医への受診日だったため、そのとき主治医の先生に素直に話した。


「自分自身が、ただただ存在していいんだって思えないんです」


すると先生は言った。


「コペルニクスって知ってる?」


相手の立っている位置から見てみたら、違うように見えるんじゃない?と。



目からウロコ、とはこのことだと私は思った。



相手の気持ちになって考える、も

相手の立場を想像する、も

同じことなんだと思うけれども、私にはイマイチ響かなかった。


なぜなら、そこに『私の気持ち』が存在したからだ。


その『私の気持ち』を一旦置いておいて、相手の立ち位置に立ってみる。

ただそれだけのこと。

だけれど、私にとってはとても大きな気づきだった。



相手もみな、ただ今を一生懸命生きていて。

多くの人は嫌な思いをさせようなんて考えてもいない。

あの頃も、今も。


たぶん、そう。

きっと。


そうすれば、私の人生で起きた悲しいことのほとんどは説明がつく。

だから、


水に流そう


そう思った。



もちろん、いきなりすべてを綺麗さっぱり水に流せたわけではない。

未だにモヤモヤしてしまうこともある。


けれど。

少しずつ、少しずつ。

もがきながらも前に進みつつある。



私は生きることを選んだ。

誰かを笑顔にするために、この先を生きていきたい。

生きてる意味がわからなくなった。


急に、また。



あるニュース記事をきっかけに

自分の過去を振り返った。


あんなことあったな。

こんなこともあったな。

そっか、私はあれが辛かったんだと。

紐解いていった。


じゃあ、今の私は?

どうしたい?

どう思う?

自分に問うた。


そうかそうか。

そういうことをしたいんだね。

じゃ、やるべきことも見えてきたね。




そう、思った。

なのに。




あれ?

私、本音言えずにここまで生きてきて。

私の本音、誰も知らずにここまできて。


この先、必要?



今、休職中の私が関わっている人なんて本当に必要最低限で。

その彼らが私の本音を知らない。

ずっと前から。


これからも話さなければ、世界は今まで通りに進む。

話せば何かが壊れるかもしれない。

傷つけるかもしれない。

もちろん誰かとの関係がそれで終わるなら、その人とはそこまでの関係だということも十分にわかっている。



頭では、わかっている。



でも。

私は、私自身のことを

『生きてるだけで十分なんだ』

とは思えなくなってしまった。



私は、私が大切に思ってる人のことを


『生きてくれているだけで

そこにいてくれているだけで

私は幸せ』


だと思ってる。



もしその人がツライ思いをしたり、

モヤモヤが溜まっていたりして、

私が話を聞ける立場にあるのなら、

いつだって話をききたい。



私にもそう思ってくれてる人がいるのだとしたら嬉しいけれど、誰がそう思ってくれているのか、残念ながら私にはわからない。



『人はみな、ただ1人で生きている』

そういうけれど。


誰かと心震わせるようなことがなければ、生きているのが虚しくなってしまうのも『人』なのではないだろうか?




今まで生きてきて。

色々話したときにダメ出しされて、

ダメなところを思い知っただけで終わってきた


ダメだと思う人は

『ダメだ』ということしか伝えてこなかった


ダメだというのなら

正解もセットで教えてよ

今はそう思う




私はパーソナリティ障害というものに当てはまるみたいで。

それを読んで自分の人生を振り返ったとき。

いろんなことがぐるりと反転するような感覚になった。



今まで私は割と常識を逸脱してない範囲の人だと自分では思っていたけれど…

もしかして…

私が非常識で、おかしいのかしら?

だから「ダメ」としか言われなかったのだろうか?




優しいと

気遣いをし過ぎると

ずっと言われてきたハズだけど


本当は…違うのか?



今すごく混乱している




というようなことをこういう場で書くと、どうせ『フリ』でしょ?というようなことを書く人もいるから、今までは紙に書いてきた。


だけど。

あえて誰でも見える場所に書いてみた。



このままいなくなる道を選ぶのか。

生きる道を選ぶのか。

まだわからない。


でも、どちらにしてもここに残る。

生きた未来の私が忘れないように。

今生きてる私の記録を残しておこうと思う。


幼なじみのお母さんが亡くなった。

癌だった。



おばちゃんはいつも笑っていてパワフル。

本当に夏の太陽のような人だった。


自営業ということもあるのかもしれないけれど、身内かどうかなど関係なく、みんなに同じように接する人だった。

私は幼少の頃からコミュニケーションがどちらかといえば苦手で、おばちゃんの少し強引なところが苦手だった。


でも、今思えば、おばちゃんの方が私の母よりも私をきちんと見ていてくれたのかもしれない。

心から思っていてくれてたのかもしれない。



昔、母に聞かされたことがあったのを思い出した。


「Hanaoちゃんは何も言わないで溜め込むでしょ?だから、時々は出させてあげないと潰れてしまうよ」


私がまだ小さい頃、おばちゃんが言ってくれていたらしい。

母が「それは私もわかってるからさせてきたけどね」と付け加え、私もそれを否定する気持ちなどなかったので今まで忘れていたんだけれど。


でも。

今、これまでを振り返ってみるとよくわかる。

困ったとき、ツラいとき、ウチの母は自分ルールで線を引く。

少し強引でも、あなたが心配なんだと、あなたが大切なんだと示されることの尊さ。

私は親から受けることのなかった深い愛情を、おばちゃんから貰っていたんだ。


私たちが大人になってからは特に、母の立場を考えて、きっと深く立ち入らないようにしてくれてたんだと思う。

私もその深い愛情に気付くことなく過ごしてしまった。


たくさんの愛を、自分のカラダを最大限に使って与え続ける人。

おばちゃんはそういう人だったんだ。



おばちゃんの闘病中、私も毎週末熱を出したりしてなかなか会いに行けなかった。

そして、本当に久しぶりにおばちゃんに会ったときに気付いたの。

でもね、言ったらお別れな気がして言えなかった。

結局最後の期間の面会ですら制限がかかってしまって、会えたのは1度きりだった。

また会えると思っていたのに…


だから、言えなかった。

大切なこと。




おばちゃん、大好きだよ。




私、もう絶対にしない。

後悔するような生き方。

会いたい人に会えないような生き方。

思っていることを飲み込んでしまうような生き方。


この一瞬、一瞬を大切に。

思うだけでなく、気持ちをカタチにしていこう。

カラダであらわしていこう。


言葉も大事。

だけど、それ以上にカラダを使って示すことが大事。


立派なことを言ったって、行動が伴わなければ意味がない。

頭でっかちは立っていることすら難しいのだ。



これからは、おばちゃんがいつだって見ている。

きっとおかあさんと一緒に話しながら。

私と幼なじみを見守ってくれてる。


おばちゃんの長所を受け継いだ幼なじみを見習いながら、私もひとつひとつ始めていこう。

最近、私の中での学びが凄まじい勢いで進んでいる。

この10日くらいのこと。


まだまだ自分の真の部分に落とし込めきれているかというと、そうでもないのだけれど。

でも、今まで理解しきれなかった点と点が線になって、自分の価値観が変化していく感じがしている。



先日。

アンミカさんが出演されたラジオを聴いた。

元々好きで聴いてる番組。

そこでのこと。


『苦しいこと、うまくいかないこともそれは全部宝ものなんだから、絶対役に立つから全部集めといてね。今、宝箱の中にいるんだよ。』


『アナタにしか見えない景色を見ている』


『私は朝にお祈りしてから出かけている。疲れてても、誰かが自分のために時間を使ってくれている。時間は命。その分私も誰かにエネルギーをまわしていきますね!ありがとう!』


『世の中は誰かの一生懸命の上に成り立っている』


『神さまにお願いしてもいい。その代わり、神さまに代わって世の中を良くするために全部還元します!と宣言する』


きっとこれまでも似たようなことは聞いてきたはずなのに、このアンミカさんの言葉は、本当にすべてが私の心に染み渡っていった。


ちょうど、受け入れられるタイミングだったのかな?



アンミカさんは『エネルギーをまわしていく』という考え方なのだそう。

そして、神さまなど自分の信じているものの代わりに私が自分の持っているものすべてをつかわせていただきます、という気持ちなんだと知った。


これこそが『帰依』というものなのかな?

私が真にわかるにはまだまだかかりそうだけど、初めてなるほどと思った。



今日、具合が悪くて薬を買おうかと迷ったとき。

一瞬「高いもんなー。安く手に入れられれば…」と思った。

そのときにハッとした。

「いや、これこそが『どこかで誰かが自分のために時間を使っている』ということじゃないの?」と。

誰かが一生懸命仕事をしてくれた結果、私が安全な薬を手にすることができる。

それを飲めば、私が元気になる。

「喜んで払わせていただこう」自然とそう思えた。

『喜びでさせていただく』とはこういうことなんだな。



休職中の私。

これからの収入を考えると少し焦っていたし、心の中でパワハラした人とそれを庇った人を少しイヤに思っていた。

でも、今の自分にしか見えない景色を見ているのだとすれば、なんてステキな時間をいただけたんだろうと、そう思うとすべてが愛おしくなった。




すべては考え方だ。

私はその考えることに疲れ、少し病んでしまっていた。

大好きなお仏壇の前にも座れず、自分を見つめることもできないまま私は病気になった。


やっと私がかえってきた。

そして、急に進化した✨



また毎日読経できるようになった。

今の私にできることは少ないかもしれない。

でも、この身を使って貰うことはできる。 


美しくない言葉を言うくらいなら

言霊があるのなら

誰かを守れる言葉を紡ぎたい


心がザワつくようなものを読むくらいなら

目を清め、心を清めて

正しく物事を見つめられる目を心を養いたい


そう思いながら今日も読経をした。



大好きな人を想う。

そんな尊いことができる。

そういう人たちに囲まれている私は、本当に幸せ者だ。

これからも学ばせていただきながら、私もこの愛というエネルギーを巡らせていこうと思う。


親、というお仕事、お役割について時々考える


私は認識が女性だから母親

でも片親だから父親も


なんでも身の回りの世話をやってあげる人?

いうことを叶えてあげる人?


友だちのようになれれば正解???



ずっとずっと長年親として

ダメ出しされてきたけどさ



今日、なんかふと思ったこと。


『母さんがいるから大丈夫』


それかなって。

私ができることは。



美味しいお料理の作り方も

効率の良い家事のやり方も

どこのスーパーがお得かも


ライフハック的なものは全部ネットに落ちてる


でも、『これやるのは、これ言うのは不安。だけど母さんがいるから大丈夫!』って思える存在になることって、私にしかできないなぁって


いつかその "母さんが" の部分が他の誰かに変わったとき、私の『親』というお役割が終わるんだろうって


『この人がいてくれるから大丈夫』

そう信じられる心を育てる

そういう人と繋がることのできる人を育てる

それが『親』というもののお役割なんじゃないかな?って



ご飯作れないからダメ?

お金なくて欲しいものあげられないからダメ?


違う、違う!



心だけは

想いだけは

たくさんたくさんあげられる


今日ひとつダメ出しするより

明日ひとつ

ううん、昨日のことだっていい

良いことを褒めよう


大好きって気持ちを

何かにのせよう



何をしたってまるごと全部

君を信じてるから


さぁ羽ばたいておいで

自由にどこまでも



私は

そんな母親になる





『今、私が本当にやりたいことかどうか?』


どれを見てもそう書いてある。
ということは、きっとこれが今の私のテーマ。

私の心が「しんどい」「イヤだ」って言ってる声を
「嬉しい」「楽しい」「大好き」って言ってる声を

私がちゃんと聞いてあげるとき。


パワハラなんてなかなかハードル高いけど
心折れないように
壊さないように

心の声、大切にしようと思う