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Reflective Journal by Megumi Nishikawa

Student at the University of Arts London,
BA (Hons) Theatre & Screen: Set Design for Screen

西川恵と申します。
ロンドン芸術大学で映画のセットデザインを学んでいます。

大英博物館の春画展覧会へ行ってきたのです!

4部屋を2時間あれば巡れる展覧会を、1部屋目で3時間も過ごしてしまい、とにかくのめり込みすぎて熱が出てきたので、途中で切り上げて残りは後日行くことにしました。

まとめた感想は後日ブログに書きます。

700年以上前の春画なんて見たらもう寝付けそうにありません!古代も現代も人間はいつどきも欲深きものですね・・・


吉原遊廓 江戸後期~戦後
脱線しかけた前回の続きです。

デザインコンセプトで最終作品の一番近い形になるであろうデザインは飛田新地の元妓楼、現在は料亭の百番です。


画像引用元:オヤヂの読書記

百番に関しては以前記事を書いたのですが、その時は豪華絢爛な壁画や襖絵に夢中になっていたものですから、内装や外観を記録していませんでしたm(_ _)m
飛田新地 百番 The traditional house of prostitution

なのでまた勝手に他の方のブログから引用します。(ちなみにここまで画像を引用してまでブログを書くのは、日本語であれ英語であれブログを書くのも学校の課題の一つで、頻繁に見せなくてはいけないのです)

提灯の灯火…


画像引用元:おいしい生活

歴史を目の当たりにしてきた艶っぽい欄干…



画像引用元:☆銀座憧湖☆お江戸じゃんぬの毎日

そして客人を迎え入れる唐破風の玄関…


画像引用元:大阪レトロ


そして秘密の園、中庭。


画像引用元:熱中ブログ



完璧すぎるコンビネーションです。そう思えばこれ以上ないほどの贅沢な造りなのですね。百番へ行った時には女将さんがピリピリしておりあまりゆっくり見ることができなかったので、それに気づけなくて残念です。

次回へつづく…


面白いブログを見つけました。
札幌では東京や大阪のように赤線がない為、蕎麦屋さんがその代わりを担っているそうです。

蕎麦でも食べようと入った客がいくら待っても蕎麦が出てこず、厚化粧の女性が出てきたなんてこともあったとか。 沖縄の辻といい札幌といい同じ日本でも遊廓のシステムは全然違うのですね。

札幌の蕎麦屋には私娼がいる 2013年10月14日 作成者: 遊郭部

以下引用:

札幌の私娼についての面白い記述を見つけました。
性之研究会『賣淫研究』(1921年11月10日発行)からの引用です。

s-__

札幌の私娼
区立病院にて MI生
札幌には東京の浅草の様な公然の魔窟は無い。その代わり市内随所に散在している「そばや」がそれである。なんにしても知らない東京あたりから来た兵隊さんが消灯時間にせまって「そばでも一つ食べてゆこう」と思って飛び込むが、おあつらいをしても仲々もってこない、(。)へんなお白粉の女が、いやなコケットを弄して、せきつく兵隊さんの催促に応答している。物の一時間もたつ後から、ヤット近所のそばやからとりよせたものを出すという始末で、店には正宗の瓶が並べてあるに過ぎない。そうして女達は僅かな金で男の要求を満たしてやる。

まずはこの著作者なのですが、「性之研究会」とあります。戦後のカストリ雑誌を想像させますが、発行は大正10年であり、中身も割合まじめです。
当研究会の住所も記してありました。「東京市外高田町高田1495番地」だそうです。

そして内容。
札幌の区立病院での話(聴き取り?)らしいのですが、「MI」とは「medical institute」つまり医大生ということでしょうか。
この著作が1921(大正10年)のものなので、当時は蕎麦屋という名義で私娼街があったようです。

明日からの課題は映画ドラキュラ伯爵の脚本を元にリメイク作品を作るというものです。
とは言っても実際の映画を撮るのではなく、あくまでもプロダクションデザイナーとしての仕事をします。

まず渡された脚本を分析し、セットにはどのような小道具大道具が必要か書きとめます。

そしてストーリーはそのままで、自分の好みの舞台や年代を変えてリメイク映画を作るという定で、ストーリーボードを描き→そのセットをデザイン→建築モデル制作するのです。

私が選んだのは勿論(^^; 遊廓。 より遊廓建築についてリサーチする良い機会になりそうです。
ドラキュラという少しエロの要素が入っても自然であるテーマなので遊廓はぴったりかもしれません。

最初はこんな戦後~戦後間もない頃の赤線がいいなと思ったのですが、

なにせ意地でも唐破風の玄関と欄干は付けたく、外観に関しては古典的で品のある遊廓にすることにしました。が普段結構遊廓建築についてよく調べますが、目的を持って調べてみるとなかなか難しいものです。
なので時代を遡って江戸時代へタイムスリップしてみることに。面白いことに典型的な遊廓建築のデザインというのは江戸時代から変わっていないのです。


画像の引用元:東京国立博物館
歌川国貞「北廓月の夜桜」 江戸時代後期(おそらく1850年前後くらいと勝手に予想)
これは吉原大門を表から見た図で、通りに見える建物は見世ではなく、引き手茶屋だそうです。有名なお話ですがこの満開の桜は春になるとわざわざ桜の木を他所から持ってきて植えられるのですよ。

明治に入ってからは、吉原遊廓にも西洋の文化が取り入れられていますね。


歌川国貞の浮世絵と同アングルからの撮影です。
画像の引用元:OLD PHOTOS OF JAPAN
明治33年(1900年)


これも吉原の妓楼のひとつだそうですが、これは”西洋風”ではなく伝統的な遊廓建築ですね。
画像の引用元:OLD PHOTO OF JAPAN
明治23年(1890年)

大門の写真から11年後の春、吉原遊廓は大火災に見舞われます。


画像引用元:探検コム

以後にも空襲や火災の被害は多くあるのですがこの明治末期の大火災が映画で有名な「吉原炎上」です。←私の好きな映画のひとつ。
その後まもなくして大正時代には、吉原遊廓は復興したそうですが、明治12年の関東大震災でまたもや全焼の被害に被ります。
余談ですが(ホントに余談)黒澤明は幼い頃に関東大震災を経験し、兄に無理やり外に連れ出され何千ものの死体や倒壊した建物を見て以来、現実を直視するという大切さを学んだそうです。


画像引用元:探検コム
大正時代(1912年~1923年の間に撮影)

話は吉原に戻りまして、大震災後、昭和に入ります。吉原遊廓は復興したそうですが、
写真を見てみると以前の妓楼よりも淡白でちょんの間のような寂しい造りになってしまいましたね。これぞ昭和の遊廓らしくて味があって良いのですが。


画像引用元:探検コム
昭和6年(1931年)


画像引用元:吉原はこんな所でございました
昭和初期
しかし春の仲ノ町は相変わらず華やかです。


昭和20年(1945年)、復興しばかりの吉原でしたが、太平洋戦争の空襲により全焼してしまいます。そしてGHQによる公娼の廃止制度により吉原は幕を閉じ赤線・青線の時代へ突入します。※全国の遊廓が廃業に追い込まれた昭和33年の売春防止法の完全実施までは営業しているお店は多くあったそうです。
当時の実録です。ここまで近代になると今回の課題とは趣旨が違ってきます。

赤線の時代といえば…洲崎パラダイス赤信号!と話したくなってしまいますが、どんどん脱線していっているので一旦ここで締めにします。








私が生まれ育った町は豊中南部に位置する庄本町です。
梅田まで車で15分、自転車でも30分はかからないという距離ですが、都会の喧騒を忘れられるような静かで広々とした下町です。


画像引用元:十三のいま昔を歩こう


お家が特定されてしまいますが(^^; 私の実家は特に窓を開ければ光國寺の鮮やかな桜の木や立派な漆喰の壁が見えるので都会に住んでいる気がしません。光國寺には江戸時代の武士である萱野三平の墓があります。が本当のところ萱野三平の墓はいたるところにあるようなのでこれが本当の墓かは分かりません。

そんな私の実家は歴史ある神社である椋橋総社の参道内に建っています。椋橋総社のシンボルと言えば錦鯉です。行基が庄本へ来たときに猪名川の禮水橋が洪水により流されてしまい、そのときに鯉が群れ作り橋になってくれたという言い伝えがあり、庄本で生まれた者は鯉を絶対に食べてはいけないとい決まりがあります。実際に私の祖母が鯉を食べたときには病で倒れたとか。


画像引用元:十三のいま昔を歩こう


んな庄本町にとっての一年で一番の一大行事は秋祭りです。毎年10月13日14日に行われ、神輿はそれぞれ2トンあり、300年の歴史を誇る地元民の自慢の祭りです。
庄本町の中でも、
●光國寺より北側のエリア、神社を拠点とする宮之町の御輿。(半被やズボンは白がテーマ)
●光國寺より南側のエリア、消防団の倉庫を拠点とする仲之町。(半被やズボンは青がテーマ)←うちの御輿
●さらに南側の庄内西小学校前を拠点とする南之町。(半被やズボンは黒がテーマ)
上記の3台の自慢のふとん太鼓が鳥居から神社までの約200mを2時間ほどかけて担ぎます。御輿のサイズは豊中市の中でも大きく、装飾も伝統的で重厚感があります。


2012年


2012年

2012年

庄本町民にとって最大の悩みは年々担ぎ手が減っていること。今では3台の御輿を交互に担いで担ぎ手は休むまもなく3台の御輿を宮入させます。やはり大勢で担ぐといっても祭りから1週間は肩が腫上がり、極度の疲労・筋肉痛に苦しめられるそうで、そこまでして地元の祭りに徹する意欲はないという若者が多いのでしょうか…
娘からすれば父や親戚が担いでる姿を幼い頃から見るのがとても自慢げで、この日こそ男が一番かっこよく見えたものです。


2012年


2012年

昔はよそ者が担ぐなんてもってのほかでしたが、人手不足に伴い、町民の知人や会社の同僚までが担ぎに来てくれます。父母の会社の社員もこの日は休日返上で担ぎにきてくれます。


2010年

2010年

しかし観客は毎年減ることはなく大盛り上がり。14日の本宮には庄本の多くの家庭で宴会が行われ、この日は朝まで騒いでも近所迷惑だとは言われません。

祭りは夜だけでなく人手の少ない昼間にも担ぎます。


画像引用元:十三のいま昔を歩こう


画像引用元:十三のいま昔を歩こう

お昼には神主さんが各一軒を回り、奉納するお金を取りにきてくれます。(適当な言い方がわからない)
そして獅子舞も出て、きっと神様のお祭りというニュアンスがより強いのは昼だと感じます。


画像引用元:十三のいま昔を歩こう

お気づきになられましたでしょうか?じつは夜の写真にあった白いぼんぼりは14日の本宮の夜しかつけません。本宮の夜意外はこの赤い布団太鼓なのです。


画像引用元:十三のいま昔を歩こう


そろそろ日本は18時半。既に太鼓が響き、鳥居で御輿が待機しているところでしょうか。
母から写真が送られてきたら、‘私の写真‘でブログを書きます(^^;


リファレンス:

萱野三平の墓(2)
『郷土 庄本の歴史を中心として』(郷土の歴史研究会)p20-23
『郷土 庄本の歴史を中心として』(郷土の歴史研究会)p24-26「鯉伝説」
知人が教えてくださった近代建築。
こんなに立派な大正モダン。アールデコ建築が生まれ育った街からそれほど遠くない場所にあるなんて。
それも今は空き家になってるとは…空襲や震災を乗り越えても微動だにせず残っているのに悲しいです。

以下のウェブサイトによると大正15年の建物。予断ですが私の祖母の平屋より10年後。

画像引用元:舞子の浜



無駄な飾りつけがなく、ずしっとした建て構え。なんだか意味深な重厚感。

そう、以下のブログからよると地下は留置所だったそう。


画像引用元:廃墟巡り~日本のアングラを探る~


日本に戻ったら行かなければ。開放日があるのかな?        

友人を招待しました。

散らし寿司に、オクラの鶏肉煮、人参とズッキーニの中華風サラダ




懐かしい写真を発見しました。

私は数年前に飲食店をオープンしました。現在はイギリスに来たため、一緒にオープンした従妹がお店をしています。

お店は全て手作り。壁のペンキから始まり、最終的には木のフロアや棚やテーブルやら色んなものを作りました。

私の大切な思い出です。